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「平氏全盛の基盤」残した平忠盛

今日1月15日は、白河・鳥羽上皇を武力的に支え、平清盛の父として平氏全盛の基礎をこしらえた平忠盛(たいらの ただもり)が、1153年に亡くなった日です。

1096年、白河法皇の北面武士(警備兵)として仕えた平正盛の子として生まれた忠盛は、1108年13歳で父とともに法皇に仕えはじめ、1111年には検非違使を兼ねて京の治安維持に従事したり、地方の治安に当たる追捕使(ついぶし)として瀬戸内海の海賊を討つなど、法皇から大きな信頼をえました。忠盛の長男清盛は、法皇の寵妃である祇園女御と法皇との間の子だという話や、1129年に法皇が亡くなったときは、忠盛が入棺の役をになったといった話が伝えられています。

鳥羽上皇の院政に入ったころから、忠盛はますます出世し、1132年には上皇の命を受けて得長寿院という寺を造営し、千体観音を寄進した功績で、刑部(ぎようぶ)卿となって、内昇殿(宮中の殿上の間への出入り)を許されました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、当時では破格の待遇でした。やがて鳥羽法皇の寵愛が藤原得子に移ると、藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立、忠盛は妻の宗子が家成のいとこだったことから、より親密な関係を築いていくようになりました。

鳥羽院政期になって荘園整理がおろそかになったことで、各地で荘園が爆発的に増加しました。院領荘園の管理を任されるようになった忠盛は、1133年に宋人の船が鳥羽院領内に来航すると、院宣と称して荘園内での大宰府の臨検を排除させるなど、日宋貿易の巨利に目をつけ、西国方面への進出を指向するようになりました。1135年中務大輔に任じられたころ、日宋貿易につながる海上交通ルートである瀬戸内海は、海賊のばっこが大きな問題となっていました。追討使に任じられた忠盛は、降服した70名の海賊を連行して京にもどり、自らの家人として組織化しました。

その後、1139年に興福寺衆徒が強訴を起こすと、宇治に出動して入京を阻止。1146年には受領の最高峰といえる播磨守となり、公卿への昇進も間近となりました。ところが1147年、清盛の郎党が祇園社神人とこぜりあいをおこしたことで、祇園社の本寺である延暦寺は、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こしましたが、鳥羽法皇は延暦寺の要求をしりぞけています。しかし病には勝てず、公卿昇進を目前としながら、清盛によって樹立される平氏政権の基盤を残して、58歳で亡くなりました。

忠盛は、歌人としても優れ、家集『平忠盛集』のほか『金葉和歌集』など勅撰和歌集に十数種選ばれています。


「1月15日にあった主なできごと」

1862年 坂下門外の変…大老の井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で殺害されたあとを受けて老中となった安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸浪士ら6人に襲われました。

1918年 ナセル誕生…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが生まれました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。
投稿日:2014年01月15日(水) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)