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「賢君」 保科正之

今日12月18日は、江戸時代初期に、高遠藩主、山形藩主を経て、会津藩初代藩主となり、幕府政治の中心をになった保科正之(ほしな まさゆき)が、1672年に亡くなった日です。

1611年、第2代将軍徳川秀忠の3男、3代将軍家光の異母兄弟として生まれた保科正之(幼名・幸松)は、1617年7歳のとき、旧武田氏家臣で信濃の高遠藩主・保科正光の養子として育てられました。1631年、正光に指名されて高遠藩3万石の藩主となり、肥後守を任されました。

長兄の家光が、正之の存在を知ったのはそのころのことで、ある日家光がお忍びで、5人ほどの供を連れて目黒の寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされてからでした。家光が、有能で謹しみぶかい正之をことのほかかわいがったことで、正之は、1636年に山形藩20万石、1643年には会津藩23万石の藩主となりました。

藩政においては、家臣団を編成して新田開発や倹約につとめ、ウルシ栽培などの産業をおこすなど、農政にすぐれた手腕を発揮しました。また、自ら会津の基本方針を定めた「社倉は民のためにこれをおく、永利のためのものなり。歳餓えればすなわち発出してこれを救うべし。これを他用すべからず」など15条からなる『会津家訓』を著しました。

正之の定めた制度は厳密で、領内の松・ケヤキ・モミなどはすべて藩の用木とし、農家の屋敷内にある木でも、それを伐採するときは願書を提出させ、その価を上納させたうえで、許可を与えていました。とくにウルシの木への監督は厳しく、すべての木に番号をつけ、秋ごとに検使をだして、ウルシ実を計量させるという徹底ぶりでした。会津の地が山間にありながら、四民が力をあわせ、百工が興り、下民も困窮することがなかったのは、この家訓がひきつがれたからでしょう。正之の子孫の会津・松平家が幕末まで会津藩主を務めました。

1651年家光は、死に臨んで枕もとに「賢君」といわれるようになった正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」といい残しました。これに感銘した正之は、第4代将軍家綱の補佐役となり、大老職について幕政に重きをなし、武家諸法度を改訂して「殉死」(主君が死んだとき、家来があとを追って自害すること)を禁止するなど、さまざまな政策にかかわり、1669年、長男の正経に家督を譲って引退しました。朱子学を学び、神道を修めた正之の著書には、『心録』『玉講付録』などがあります。


「12月18日にあった主なできごと」

1779年 平賀源内死去…江戸中期の蘭学者、博物学者で、エレキテルの製作や燃えない布の発明、小説や戯作家としても活躍した平賀源内が亡くなりました。

1891年 足尾鉱毒告発…田中正造はこの日の議会で、足尾鉱山の選鉱カスによる鉱毒、山林の乱伐、煙害や排水により、渡良瀬川の洪水と結びついて、沿岸一体の農地を荒廃させた「足尾鉱毒問題」をとりあげて、事態の重大性を訴え、銅山の即時営業停止と農民の救済を政府にせまりました。

1914年 東京駅開業…新橋─横浜間にわが国はじめての鉄道が敷かれて以来、東京では新橋が始発駅でしたが、この日東京駅の開場式が行なわれ、東海道本線と電車駅の始発駅は、東京駅となりました。

1956年 国際連合に加盟…国際連合の総会が開かれ、満場一致で日本の国連加盟を承認し、80番目の加盟国になりました。1933年に国際連盟を脱退してから23年目にして、ようやく国際社会に復帰しました。

投稿日:2013年12月18日(水) 05:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)