今日12月16日は、江戸時代後期の農学者で、農業に役立つたくさんの著書を残した大蔵永常(おおくら ながつね)が、1861年に亡くなった日です。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の3大農学者の一人とされています。
1768年、豊後国日田(現・大分県日田市)の農家の子に生まれた大蔵永常 (通称・亀太夫)は、祖父や父から綿の栽培、蝋(ろう)の原料となるハゼ栽培・加工の技術を学びました。少年時代から好奇心が強く、地元の寺子屋に通って学問を志すものの、実践のともなわない儒学にあきたらず、実社会の益になる学問を求めるようになりました。
20歳前後に全国的にひん発した大飢饉がきっかけとなって、23歳のころに家を出ると九州諸国で労働につき、貧窮に苦しみながらも、製糖や製紙などの栽培・加工技術を身につけました。また、農具や農業技術への関心を深め、長いあいだ農業にたずさわってきた各地の老人をたずねてメモをとり、ときには自ら栽培・製造をこころみたりしました。
1796年29歳の時、長崎より大坂に渡り、苗木商を営むかたわら、ハゼノキの栽培法と製蝋技術を解説した初めての著書『農家益』を刊行しました。これをきっかけに、シナノキの樹皮から繊維を取って縄や布を織るための方法を記した『老農茶話』、あらゆる種類の農具を各部分の寸法・重量も含めて詳細に図解した『農具便利論』などを次々と出版していくうち交友が豊かになって、畿内地区はもちろん、北陸・中国地方をめぐり、1810年には江戸にもおもむいています。
1825年に再び江戸へ出た永常は、水戸藩の農政家と交わるうち藩主水戸斉昭に財政改革の意見を上申したり、たくさんの著書を関東農民のために書き直して出版しました。とくに『除蝗録』は、イナゴの害に苦しむ農民のために鯨油を水田に流す方法を教え、菜種の栽培と油のしぼり方を解説した『油菜録』は好評をえました。
1834年には田原藩江戸家老の渡辺崋山の推せんにより、田原藩(愛知県・渥美)に興産方という農業指導者の役職につき、田原に移住して藩内の農業を一新しましたが、1839年の「蛮社の獄」で渡辺がちっきょとなったことで田原を去りました。
1841年に永常は、老中水野忠邦に登用され、浜松藩の興産方となったものの、藩の所替えにあって江戸にもどってからの消息はよくわかっていません。しかし、1859年に刊行を終えた、永常農学を集大成した『広益国産考』(8巻)が残りました。ハゼノキ・綿・サトウキビなど、農民の収入に有利な60種類の品目をとりあげてやさしく解説したもので、農業経営のありかたまでも記しています。「民富は国富に直結する」という考え、儒教道徳を否定する理論は注目にあたいすると、今なお評価されています。
「12月16日にあった主なできごと」
1773年 ボストン茶会事件…この日の夜、インディアンに変装したボストン市民が、港内に停泊中のイギリス東インド会社の船に侵入。342箱の茶を海に投げ捨てました。この事件がキッカケとなって、イギリス本国と植民地の関係が急速に悪化、1年4か月後にアメリカ独立戦争が勃発しました。
1859年 グリム弟死去…兄弟で力をあわせ、ドイツに伝わる民話を集大成したグリム兄弟の弟ウィルヘルムが亡くなりました。
1864年 奇兵隊の挙兵…11月の第1回長州征伐に敗れた長州藩でしたが、高杉晋作の率いる足軽・百姓・町人の有志で組織された「奇兵隊」がこの日挙兵して、藩の主導権を握りました。