今日12月11日は、野鳥の研究や保護の基礎をきずき、「日本野鳥の会」を創立した野鳥研究家で詩人・随筆家の中西悟堂(なかにし ごどう)が、1984年に亡くなった日です。
1895年、石川県金沢市に生まれた中西悟堂は、生後まもなく両親を亡くし、天台宗の僧侶だったおじの養子となってそだてられました。1907年に養父や祖母とともに東京・調布の祇園寺に移住、1911年16歳のとき深大寺の僧となって修行をつむかたわら、短歌や詩に親しむうち詩壇に入り、1922年に第1詩集『東京市』を出版しました。
1926年、千歳烏山に移り住むと詩壇と決別して田園生活に入り、質素な生活をしながら昆虫や野鳥の観察を始めました。3年半後には杉並・善福寺に移り、自宅に野鳥の放しがいをしたり、全国の山々をめぐって野鳥の観察を行いました。
1934年、悟堂は野鳥という言葉を発案し、鳥学者の内田清之介や英文学者の竹友藻風らと「日本野鳥の会」を構想すると、柳田国男、北原白秋、金田一京助、新村出、内田清之助らたくさんの文化人の後援を得て会を発足させました。これまでは、鳥を愛するといえば、鳥籠に飼う程度だったのを、悟堂は「野の鳥は野に」と叫び、同年6月には富士山裾野の須走で、後に「探鳥会」と呼ぶようになる野鳥観察会を初めて開催しました。また、悟堂が編集責任者となった機関誌「野鳥」を刊行、会員数はおよそ1800名となりましたが、1944年9月に物資不足による用紙配給が中止されたことで停刊となりました。1947年の活動再開と同時に再刊、今日に至っています。
戦後の悟堂は、国の鳥獣審議会(のちの自然環境保全審議会)委員となって、復活したカスミ網猟の撲滅、乱用されていた空気銃の使用禁止、狩猟制度の見直しをとなえて大奮闘し、鳥類保護法の制定を実現させました。その間に、天台宗僧侶13階級のうち大僧正・権大僧正・僧正につぐ「権僧正」となり、1970年に「自然を返せ」という自然保護運動がおこったときは、75歳の高齢をおして、若い人たちとデモの先頭にたって歩きました。
代表作には、読売文学賞を受賞した『定本野鳥記』(8巻)、日本エッセイスト賞受賞の『野鳥と生きる』など、著書は百数十冊にものぼります。自然の中で鳥を楽しむことを提唱したその考えには、少年時代から深めた「万物に命が宿る」という仏教の自然観があったのでしょう。いまの「日本の野鳥ブーム」は、この悟堂の行動からスタートしたといっても過言ではありません。
「12月11日にあった主なできごと」
1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶が亡くなりました。
1485年 山城国一揆…日本最大の内乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
1834年 岩崎弥太郎誕生…三井財閥と並ぶ財閥「三菱財閥」の基礎をつくった実業家の岩崎弥太郎が生まれました。
1843年 コッホ誕生…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが生まれました。
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など、地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者の長岡半太郎が亡くなりました。