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「平民宰相」 若槻礼次郞

今日11月20日は、明治・大正・昭和3代にわたる官僚政治家で、第25代、第28代の総理大臣をつとめた若槻礼次郞(わかつき れいじろう)が、1949年に亡くなった日です。

1866年、出雲国(島根県)松江藩の下級武士奥村家の子として松江に生まれた礼次郞は、3歳のとき実母をなくし、父と兄は藩命で京都に勤務したため、11歳の姉が内職をしながら3歳の礼次郎の世話をしたといわれています。小学校を出て漢学塾へ通うものの学資が続かず、山へ薪を取りに行くなど家事の手伝いをし、16歳のころからは、3年ほど小学校の代用教員となりました。1884年、叔父の若槻敬の支援をえて上京、倍率30倍という狭き門の司法省法学校を突破して入学することができ、2年後に若槻家の養子となりました。

1891年、東京帝国大学法学部を首席で卒業すると、大蔵省に入っておもに税務行政を担当、1906年の第1次西園寺内閣のときには、大蔵次官までのぼりつめました。その後官僚を退き、1911年に衆議院と対等の権利を有する貴族院の勅選議員となりました。1912年には第3次桂内閣で大蔵大臣、1914年から1915年まで第2次大隈内閣で再び大蔵大臣となり、1916年の加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となると、1924年の加藤内閣で内務大臣となって、翌1925年の普通選挙法と治安維持法を成立させました。

1926年1月、加藤高明首相が在職中に死去したため、憲政会総裁として内務大臣を兼任しながら総理大臣となって、初の内閣を組織しました。しかし、翌年に銀行が破たんするという金融恐慌の嵐に遭遇しました。若槻はその処理を急ぐとともに英米と協調外交を進めると、枢密院や軍部と衝突、破たんしかけていた台湾銀行救済案を枢密院で否決された結果、4月に総辞職をしました。

若槻はあくまで英米と友好関係を重視したことで、1930年には、首席全権としてロンドン海軍軍縮会議に参加し、政友会や海軍の一部・右翼の反対を押しきって軍縮条約に調印しました。そして1931年4月に、前年末に右翼から狙撃された浜口首相の容体が悪化して退陣したあとを受けて、立憲民政党総裁に就任、第2次若槻内閣の総理大臣となりました。しかし、9月には「満州事変」という、公然と中国大陸侵略が開始され、若槻は軍部と衝突して、同年12月に総辞職に追いこまれてしまいました。これは、政党政治・平和外交の終えんを意味するものでもありました。

これ以後の若槻は、政治の第一線を退き、元老の西園寺公望の重臣として、日米開戦に反対したり、東条英機の退陣工作に参画したりしましたが、和平の実現に力を尽くすまでには至りませんでした。

敗戦後の若槻は、極東裁判(東京裁判)の証人となりました。アメリカの検事から「日本の平和愛好者は、あなた方4人だった」として、宇垣一成、岡田啓介、米内光政とともに、ティー・パーティに招待され、その席上で、天皇を東京裁判によばない決定をしたと聞かされ、その感激をつづっています。


「11月20日にあった主なできごと」

1179年  後白河法皇を幽閉… 平清盛は、院政を行なっていた後白河法皇をこの日、鳥羽殿に幽閉。まもなく孫を安徳天皇にして、平氏の独裁体制を築いていきました。

1858年  尾崎行雄誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、憲法に基づく議会政治を擁護し、清廉な政治家として活躍した尾崎行雄が生まれました。

1910年 トルストイ死去…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家トルストイが亡くなりました。平和主義者としても知られ、『イワンの馬鹿』など民話の再話も有名です。

1945年 ニュールンベルク裁判開始…第2次世界大戦の戦犯を裁く国際軍事裁判が、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連から選ばれた裁判官のもとに、ドイツのニュールンベルクで始まりました。この裁判で史上初めて「戦争犯罪」という考え方が明確に打ちだされました。

2001年 イチロー大リーグMVP獲得…アメリカの大リーグマリナーズに移籍1年目のイチロー外野手は、日本人初のMVP(最優秀選手)に選ばれました。あわせて、新人王、盗塁王、アメリカンリーグ首位打者、ゴールドグラブ賞にも輝く活躍でした。

投稿日:2013年11月20日(水) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)