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『魔弾の射手』 のウェーバー

今日11月18日は、オペラ『魔弾の射手』『オベロン』や、ピアノ曲『舞踏への勧誘』などを作曲したドイツロマン派音楽の祖といわれるウェーバーが、1786年に生まれた日です。

北ドイツ・リューベック近郊のオルデンブルクに生まれたカール・マリア・フォン・ウェーバーは、生まれて間もなく父が劇団主となったために、ソプラノ歌手の母とともに一家でオーストリア全土を巡業の旅ですごしました。9歳のころに本格的な音楽教育を受けると才能を発揮しだし、14歳では歌劇『森の娘』を作曲したり、ビアニストとしても活躍をはじめました。

1813年にはプラハ歌劇場の芸術監督に就任、オペラの改革に尽力して、低迷していた歌劇場を再興させました。1817年には、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場に移ると、当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったのに対し、真のドイツ国民のオペラの樹立を念願するようになりました。ウェーバーは、中世から伝わるドイツの森林の伝説を、ドレスデンに住む詩人に台本を依頼し、3年近くをかけてオペラを完成させました。それが1821年、ベルリンの王立歌劇場で初演された『魔弾の射手』でした。

3幕からなる作品で、こんなあらすじです。

主人公の若い狩人マックスには、アガーテという森林護衛官の娘の恋人がいます。彼女と結婚するためには、射撃大会で優勝しなくてはなりません。腕に自信がないマックスは、仲間の狩人で悪人のカスパールにそそのかされて、魂とひきかえに悪魔から7発の魔弾を受けとってしまいます。この弾は、6発までは射手の思い通りに命中するものの、最後の1発は悪魔の自由になって、悪魔が欲するものに当たります。いよいよ射撃大会がはじまると、マックスの最初の6発をみごとに的に命中させ、立派な成績をおさめますが、最後の1発は、木の枝にとまっている白ハトを撃つことを命じられます。じつはその白ハトは、悪魔がアガーテをかえた姿でした。いまにも撃ちおとされようとしたとき、森の聖者の力が働き、魔弾は木の陰に隠れていたカスバールに当たりました。こうして、マックスとアガーテは、悪魔の手から救われ、めでたく結婚を許されるのでした……。

この作品は圧倒的成功をおさめ、雄大で魅きつける「序曲」をはじめ民謡風のメロディがあちこちにおりこまれたことから、ドイツ国民オペラの最初の作品といわれるようになりました。とくに、第3幕の「狩人の合唱」はよく知られています。この『魔弾の射手』を観賞したことで、ワーグナーやベルリオーズら、後に大作曲家となる人たちが、作曲家を志したともいわれています。

ウェーバーの代表作には、1819年に発表された『舞踏への勧誘』があります。優しく美しいピアノの小品で、宮廷の大広間で紳士と淑女が会話を交わし、ワルツを踊り、それが終わるまでを描いた描写音楽です。のちにベルリオーズが管弦楽用に編曲したものもよく演奏されます。

『魔弾の射手』で、「これ以上の成功は2度とないだろう」と栄光を味わったウェーバーでしたが、その作風に暗い影がただよいはじめ、1826年、ロンドンのコベント・ガーデン歌劇場の依頼によりオペラ『オベロン』を作曲しますが、そのときは結核にかかっていて、病苦を押して渡英、自ら指揮棒を振って成功を収めました。しかしまもなく病状が悪化して、その年の6月にロンドンで亡くなりました。まだ39歳の若さでした。


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推進していた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の急増で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいたレセップスが開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1904年 古賀政男誕生…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家の古賀政男が生まれました。

投稿日:2013年11月18日(月) 05:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)