今日11月11日は、明治・大正・昭和と三代にわたりジャーナリスト・思想家として活躍した長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)が、1969年に亡くなった日です。
1875年、東京・深川材木商の子として生まれた如是閑(本名・万次郎)は、10歳のときに曽祖母長谷川家の養子となり、肺結核になやまされながらも、1898年に東京法学院(中央大の前身)を卒業しました。1902年に陸羯南(くがかつなん)のおこした『日本新聞』の記者となり、羯南や三宅雪嶺らの自由主義的色彩の濃い「日本的」な伝統を保持するという視野に共鳴して1906年まで勤務しました。
1908年には大阪朝日新聞社に入社して、1912年ころから「天声人語」を担当、その他にも小説や紀行文をかいたりして多忙だったため、ペンネームくらいは閑そうにみえるようにと、如是閑(こんなにひま)を使用するようになりました。1914年に社会部長となると、翌年、夏の甲子園の前身である全国中等学校優勝野球大会を企画創設しています。同紙は、大正デモクラシー風潮の指導的な言論機関といわれるようになり、とくに1916年、寺内軍閥内閣が出現すると、軍閥批判、非立憲政治批判、シベリア出兵政策批判は烈しいものとなりました。ところが1918年にはじまった寺内内閣退陣要求は、政府からの弾圧(白虹事件)を招き、右翼団体からも激しい攻撃を受けて社長は交替、如是閑をふくむ幹部記者は退社せざるをえませんでした。
1919年、如是閑は大山郁夫らと雑誌『我等』(のちに『批判』と改題)を創刊して言論活動を続け、「断じて行わず」をモットーに、どんな組織や運動にもかかわらず、厳正中立、言論だけにその活動を限定しました。東京帝大助教授だった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された事件(森戸事件)では、学問の自由・研究の自由・大学の自治を主張して、同誌上で擁護の論陣を張っています。1921年に公刊した『現代国家批判』や翌年の『現代社会批判』は同誌に発表した論文を主としたもので、1924年の『真実はかく佯(いつわ)る』は、同誌の斬新な巻頭言集でした。これらは大正デモクラシーを代表する著作と、高く評価されています。
昭和にはいっても、進歩的、反権力的な論陣を張り、1932年に『日本ファシズム批判』を刊行、ファシズムの猛威が吹き荒れようとする初期の段階でこれを批判したことは注目されます。しかし、「唯物論研究会」の設立に参加したことから、翌年に共産党シンパ容疑で逮捕されてしまいました。そのためか、それ以後は、日本文化に没頭するようになり、幼いころに育った職人および職人の世界を深く愛し、日本の文化的伝統と国民性の探求をライフワークとしました。
戦後は、1946年に米教育使節団の日本側委員となり、1948年には文化勲章を受章、93年の長寿をまっとうしました。
「11月11日にあった主なできごと」
1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北アメリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。
1840年 渋沢栄一誕生…幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した渋沢栄一が生まれました。
1881年 ドストエフスキー死去…『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪ドストエフスキーが亡くなりました。
1918年 第1次世界大戦終結…前年、アメリカ合衆国の参戦により決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。
1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだ、スウェーデンの探検家ヘディンが亡くなりました。