今日11月8日は、明治維新後に『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』など、江戸戯作の流れを組む作品を残したことで知られる戯作者の仮名垣魯文(かながき ろぶん)が、1894年に亡くなった日です。
1829年、江戸・京橋の魚屋の子に生まれた仮名垣魯文(本名・野崎文蔵)は、子どものころから、父の影響を受け、大衆向の娯楽小説である戯作が好きでした。しかし、火災や天保の大飢饉により家業が衰え、9歳で鳥羽屋という大家に丁稚奉公にあがりました。ここでも山東京伝らの戯作に親しみ、勤勉な仕事ぶりやさまざまな能力の高さに周囲から愛され、15歳のとき、よく知られた戯作者花笠文京の門に入りました。
1849年に、戯作者としての名を広めるための小冊子を知人たちに配布したところ、当時の最高権威だった滝沢馬琴の賞賛をえたことで自信がめばえました。しかし、戯作修行のための遊びがすぎると主家にいられなくなり、江戸を放浪、低俗な戯文などを書くうち、一部の人たちから評価をえました。そこで、1853年湯島の家に「御誂案文認所(おあつらえあんもんしたためどころ)」という看板をかかげて独立、1855年の大地震のときには書肆(本屋)の依頼を受け『安政見聞誌』3冊を、わずか3日で書き上げ、キワモノ作家としての才能を発揮しました。
1860年には女性の富士登山解禁をあてこんだ『滑稽(こっけい)富士詣』で広く知られるようになり、ワシントンやフランクリンの伝記をお家騒動風に書きかえた『童絵解万国噺(おさなえときばんこくばなし)』などを書き、幕末の動乱をよそに、三遊亭円朝、河竹黙阿弥と三題噺グループをこしらえて、町民たちを楽しませています。
1870年、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』から着想を得て、弥次さん喜多さんの孫たちがロンドン万国博へ出かける途中の失敗談をつづった『西洋道中膝栗毛』、翌年には文明開化を代表する「牛鍋屋」に出入りする客たちの会話を見事にスケッチした『安愚楽(あぐら)鍋』を刊行すると大評判となり、花形作家となりました。明治維新によって江戸以来の戯作文芸に批判的な風潮が生まれる中で、プロの作家としての力量を発揮した人たちの代表格でもありました。
ところが1872年、今の文部科学省にあたる教部省に呼ばれ、愛国や実学志向を小説で表現するようにと命じられ、「著作道書き上げ」と称する文書を提出、福沢諭吉の科学入門書『窮理図解』をもじって『胡瓜遣(きゅうりづかい)』という題名にするなど、新政府の実学尊重の方針をナンセンスとして置き換える魯文の戯作の方法が、切り捨てられる結果になってしまいました。
その後魯文は、「虚」から「実」にかえた地理教科書やルポルタージュを書いたり、神奈川県庁の役人となって県下の民衆の教導をしたりしましたが、自分を満足させるものとはならず、1875年に『仮名読新聞』を創刊し、主筆となりました。劇檀や花柳界のゴシップが注目され、芸者を「猫」と呼んだ魯文の新語が流行したといわれています。1879年に、毒婦高橋お伝の一代記『高橋お伝夜叉物語』で注目されましたがその後はふるわず、戯作界最後の大御所は、静かに生涯を閉じました。
「11月8日にあった主なできごと」
1895年 エックス線発見…ドイツの物理学者レントゲンが、実験中になぞの放射線を発見し「]線」と名づけました。]線に感光するフィルムを使って撮影した写真(レントゲン写真)は、肺など身体の内部をうつして診察に役立たれています。