今日11月5日は、幕末期の長州藩兵学者で、長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮して勝利の立役者となり、明治新政府の兵部大輔(たいふ)となって軍隊制度の基礎をこしらえた大村益次郎(おおむら ますじろう)が、1869年に亡くなった日です。
1824年、周防国(現在の山口市)の村医の長男として生まれた大村益次郎(旧名・村田蔵六)は、1842年に防府の梅田幽斎に蘭学を学び、翌年梅田の勧めで豊後国(大分)日田にある広瀬淡窓の私塾に入って漢学を学びました。1846年、大坂に出て緒方洪庵の適塾で蘭学と医学を学び、適塾在籍の間に1年間長崎で蘭学をきわめた後、円熟した人格と学力が認められ、適塾の塾頭となっています。
1850年適塾を辞して、郷里にもどって医者となりましたが、1853年にアメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど「今は医者をしているときではない」と、兵学を学び、伊予宇和島藩に招かれて、西洋兵学や蘭学の講義と兵書の翻訳を手がけ、宇和島城北部に砲台を築きました。1856年には江戸に出て、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教えたり、幕府の洋学研究所というべき「蕃書調所」で外交文書、洋書翻訳、兵学講義、オランダ語講義などを行いました。1857年11月には、幕府の「講武所」教授となって、最新の兵学書の翻訳と当時の最高水準の講義を行ったことで褒章を受けるほどでした。
翌年、長州藩上屋敷で開かれた蘭書会読会に参加して、兵学書の講義を行ったとき、桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合ったことがきっかけとなって、1860年には江戸在住のまま長州藩士となり、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移されています。1861年に帰藩すると、西洋兵書の翻訳や兵学の講義を行い、下関周辺の海防調査を行ったり、軍制改革に取り組みはじめました。1865年には西洋式の軍備をととのえ、翌1866年の幕府による第2次長州征伐では、石見方面の戦いで幕府軍を打ち破り、軍事指導者として高い評価をえました。明治維新でも軍事面を担当し、旧幕府軍との戦いの戊辰戦争では、上野寛永寺にたてこもる3千人もの「彰義隊」をわずか1日で打ち破ったことは、よく知られています。
1869年大村は、明治新政府が新しくもうけた「兵部省」(のちの陸・海軍)では兵部大輔となって、士族の軍隊でなく、国民軍隊をめざす軍隊制度の基礎を作り上げました。ところが8月、こうした改革に反対する長州藩の士族らに、京都の宿で切りつけられて重傷をおい、治療のかいなく亡くなりました。
東京・九段の靖国神社の境内入口には、大村の大銅像がたたずんでいます。
「11月5日にあった主なできごと」
1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。
1922年 ツタンカーメン王墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340年頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは「カイロ博物館」に展示されています。