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「大女帝」 エカチェリーナ2世

今日11月6日は、ロマノフ朝第8代ロシア帝国の女帝で、領土をポーランドやウクライナにまで拡大したエカチェリーナ2世が、1796年に亡くなった日です。

1729年、ドイツ貴族の娘として北ドイツに生まれたエカチェリーナ(前名・ソフィア・アウグスタ)は、キリスト教ルター派の洗礼を受け、2歳ころからフランス人の家庭教師に育てられ、合理的な精神を持った少女に育ちました。7歳のときにはすでに王妃となる夢を抱き、美人でないために賢い女性になろうと努力したといわれています。

1744年14歳のとき、思いがけなくロシア皇太子ピョートルに嫁ぐことが決まり、翌1745年に結婚しました。エカチェリーナは短期間にロシア語を習得し、ロシア国民に支持される努力をおしみませんでした。ロシア正教に改宗したことで貴族たちを感激させましたが、ピョートルの男性能力欠陥のため、結婚生活は不幸なものでした。

1762年1月にエリザベータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝ピョートル3世に即位、エカチェリーナも皇后となりました。ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、プロイセンとの7年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に入りフリードリヒ2世を追いつめていたにもかかわらず、自身が即位するといきなり和約を結んだことは、ロシアの内外で不評を買ったばかりか、ロシア正教会にも弾圧を加えました。同年7月、エカチェリーナは近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行すると、ほぼ無血で成功。ピョートル3世はわずか6か月で廃位・幽閉され、まもなく監視役に暗殺されました。(公式には持病の悪化で急死とされています)

エカチェリーナ2世に即位すると、ボルテールやディドロらフランスの啓蒙思想家と親しくし、「君主は国民のためにある」といって教育の振興、病院の設立、文芸の保護などを行いましたが、政策は専制的で、農奴制を強化させたりしました。1773年、重い負担に苦しむ農民たちは、ブガチョフの指揮のもとで「農奴解放」を叫んで大規模な農民反乱(プガチョフの乱)をおこしましたが、1775年にはこれを鎮圧。これをきっかけとするようにますます反動的になり、対外的にも侵略的になって、オスマン帝国との戦争に勝利し、ウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し、黒海の制海権を奪い取りました。さらに、ブロイセン・オーストリアと組んで、ポーランド・リトアニア共和国を消滅させて、3度にわたりポーランドを分割してしまいました。また、アラスカにも進出して千島列島を占領したほか、1793年にはラクスマンを使節とし、箱館(函館)に入港して上陸、日本人の漂流民を帰国させ、日本に通商を求めています。

ロシアの文化や教育の整備にも力を注ぎ、ロシア語辞典の編さん事業にとりくんで、後世のロシア文学発展の基盤を作り、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿の建設にとりくみ、のちのエルミタージュ美術館の基盤をこしらえました。自身も文筆にすぐれ、回想録、童話、戯曲などの文芸作品を著すなど、「大女帝」として歴史に大きな足跡を残しました。


「11月6日にあった主なできごと」

1494年 スレイマン誕生…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれたスレイマンが生まれました。

1945年 財閥解体…太平洋戦争敗戦後に日本を占領し、間接統治を行なっていたGHQ(連合国軍司令本部)は、三井、三菱、住友、安田など15財閥83社の解体を指令しました。これらの財閥が、日本経済をささえ戦争をすすめる原動力になっていたと判断したためです。しかし、財閥は解体されたものの財閥の流れをくむ企業の大半は、大規模な企業グループを形成していきました。

1956年 スエズ戦争停戦…スエズ運河の国有化宣言をしたエジプトに対し、イギリスとフランスが反対を決議。さらにエジプトと対立関係にあったイスラエル軍がエジプトに侵入したのをキッカケに、英仏軍も武力攻撃を開始してスエズ戦争(第2次中東戦争・スエズ動乱)が始まりました。エジプトの抵抗、アラブ諸国のエジプト支持、国際連合の批判などにより、この日英仏は軍隊を引き上げることに同意しました。

投稿日:2013年11月06日(水) 05:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)