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『浜辺の歌』 の成田為三

今日10月29日は、『浜辺の歌』『かなりや』『赤い鳥小鳥』など、今も歌いつがれる数々の名曲をこしらえた作曲家の成田為三(なりた ためぞう)が、1945年に亡くなった日です。

1893年、現・北秋田市の役場職員の子として生まれた成田為三は、1909年に秋田県師範に入学、同校を卒業後に1年間小学校教師をしてから上京、1914年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)師範科に入学、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受け、2年在学中に林古渓の作詞に曲をつけた『浜辺の歌』[♪ あした浜辺を さまよえば/むかしのことぞ 忍ばるる/風の音よ 雲のさまよ/よする波も 貝の色も] を完成させました。

1917年に同校を卒業してからは、佐賀師範学校の教諭に赴任しましたが、作曲活動を続けたいと東京・赤坂小学校の教諭となりました。そのころ『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流することで、「童謡運動」に参加するようになりました。これは、文部省唱歌にあきたらない鈴木や北原白秋らの詩人、草川信・弘田竜太郎らの作曲家が、ほんとうに子どもたちに親しまれる歌をこしらえたいとした運動です。

1918年に『赤い鳥』に掲載された白秋の詩に、翌年成田が曲をつけた『かなりや』[♪ 唄を忘れたかなりやは 後の山に棄てましょか いえいえ それはなりませぬ/唄を忘れたかなりやは 背戸の小やぶに埋めましょか いえいえ それもなりませぬ/唄を忘れたかなりやは 柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう] を発表、『赤い鳥』に初めて掲載された楽譜で、大評判となりました。

さらに成田は、同誌の作曲担当となって『赤い鳥小鳥』『りすりす小りす』などをこしらえています。1922年にドイツに留学し、ドイツ作曲界の元老といわれるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学んで1926年に帰国。身につけた対位法の技術をもとにした理論書を著したり、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行しました。川村女学院(現・川村学園)や東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の講師をしたり、1942年には国立(くにたち)音楽学校の教授となっています。

ところが、1944年の空襲で自宅が失われ、作曲したたくさんの管弦楽曲やピアノ曲、音楽理論に長けた本格的な作曲家のすべての歌を焼き尽くしてしまいました。実家で1年の疎開生活を送った後、1945年10月に再び上京しましたが、脳溢血にたおれ、53年の生涯を閉じてしまいました。愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認され、日本音楽界に果たした役割の大きさが再認識されつつあるようです。

なお1989年、NHKをはじめ14の文化団体が組織して実行委員会を作り、明治・大正・昭和に生まれた歌で、親から子に、そして子から孫へ残したい心の歌「日本のうた・ふるさとのうた100曲」を選定しようと、同年3月1日から5月31日までの3か月間に、はがきによる全国一斉募集をしました。その総数は65万7千余通、総曲数は5142曲に達しましたが、この中に成田の『浜辺の歌』と『かなりや』の2曲が入り、とくに『浜辺の歌』はベストテンに入っています。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された江戸時代末期に大老となった井伊直弼が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には1等賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

投稿日:2013年10月29日(火) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)