今日10月31日は、幸田露伴亡き後、父の思い出をつづった数々の名随筆で注目され、長編小説『流れる』『おとうと』などを著した女流作家・随筆家の幸田文(こうだ あや)が、1990年に亡くなった日です。
1904年、作家の幸田露伴の次女として東京・向島に生まれた幸田文は、5歳のときに母を失い、のちに姉や弟も亡くなりました。女子学院を卒業し、1928年に清酒問屋の息子と結婚し長女を出産しますが、嫁ぎ先の家業は長く続かず、夫との性格不一致もあって10年後に離婚、文は娘の青木玉を連れて父のもとにもどりました。そして、少女時代から露伴にしこまれた料理・掃除・洗濯から障子貼りなど生活技術を実践して、露伴の文筆活動をささえ、戦時中は一家の生活物資の確保のために働きました。
文が世に知られるようになったのは、1947年に露伴が亡くなり、雑誌社の求めに応じて『雑記』を書いてからでした。「ちいさい時には、連続講演をやってくれた。私と弟が晩酌の膳の両側にすわって聞く。仕方話であるから、お箸は荒木又衛門の刀になり、孫悟空の如意棒になり、お椀の蓋は常盤御前の雪の笠になり鉢かつぎの鉢になる。子どもたちは眠いはずがない。それからそれからといってねだる。遂に寝る時間が来て、『それから谷におっこった』となっておしまい。あとはまた明晩である。……」
そこには、露伴のあの字数の多い漢字の行列する文章とまったくちがう文豪の素顔があり、はつらつとした知性があり、ユーモアがあり、歯切れのよいテンポのあるエッセイは大評判となりました。そのため、『終焉』『葬送の記-臨終の父露伴-』を書かざるをえなくなり、さらに、露伴の思い出などを中心にした『父』『こんなこと』、幼少時の思い出を書いた『みそっかす』などを次々に著し、随筆家として認められるようになりました。これらの回想文は、同時期に整理・刊行された書簡などの資料とともに露伴の伝記研究に大いに役立っています。
ところが、文の著書の多くが露伴にかかわるものが大半だったため、口の悪い者が「思い出屋」などといったことを耳にしてから、生来の勝気が頭をもたげ、1951年に断筆宣言をしました。そして、柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとにして書いた小説『流れる』を1955年1月から雑誌『新潮』に連載を開始しました。回を重ねるごとに評判となり、12月に完結すると、翌2月に単行本となったばかりか、11月には成瀬巳喜男監督により映画化されてヒット。日本芸術院賞と新潮社文学賞も受賞しました。同時期に発表した『黒い裾』も読売文学賞を受賞して作家としての地位も確立しました。1960年には、19歳のときに亡くした弟を客観的にみつめた長編小説『おとうと』を発表、これを原作とした市川崑監督・水木洋子脚本による映画も評判となり、キネマ旬報同年ベストワンとなっています。
『台所のおと』『きもの』などすぐれた随筆も多く、晩年には1944年に落雷で焼失した奈良の法輪寺三重塔の再建のために、10年以上も尽力しました。この仕事ぶりは、没後に、娘の青木玉が文の未刊行作品を編さんした中の『木』『崩れ』に記されています。
「10月31日の行事」
ハロウィン…カトリックの諸聖人の祝日である「万聖節」の前夜祭で、古くはケルト人の行っていた収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。ハロウィンをアメリカに伝えたのは、1840年代のアイルランド移民でした。名物のおばけちょうちんは、カブで作っていましたが、アメリカには大きなカブがなかったためにカボチャを使うようになったようです。おばけちょうちんを持ち、魔女や妖精、お化けなどに仮装した子どもたちが、近くの家を1軒ずつ訪ねては Trick or treat. (お菓子をくれないといたずらをするよ)と大声をたてます。子どもたちがきた家では、用意しておいたお菓子をわたして、仮装をほめてあげるという楽しいお祭りです。最近は、日本でもよく目にするようになりました。
「10月31日にあった主なできごと」
1517年 95か条の論題…ドイツの神学者ルターは、ローマ教会の免罪符の発行などを批判する「95か条の論題」を、ビッテンベルク城教会の扉にはりだしました。これがきっかけとなって、キリスト教の「宗教改革」がはじまりました。