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「社会運動の先駆者」 大井憲太郎

今日10月15日は、自由民権運動の指導者であり、国権主義をめざした社会運動家の大井憲太郎(おおい けんたろう)が、1922年に亡くなった日です。

1843年、豊前国中津藩(今の大分県宇佐市)の庄屋の子として生れた大井憲太郎(幼名・高並彦六)は、幼少のころから漢学の手ほどきを受け、1863年長崎へ出て蘭学や英学を学びました。そのとき、大井氏と知りあったことでその養子となり、大井憲太郎を名のりました。その後江戸に出て、幕府が洋学教育のために設けた「開成所」でフランス語と化学を学び、1865年に舎密(せいみ)局という理化学研究機関に出仕しました。

明治維新後は、フランス法学で知られた箕作(みつくり)麟祥からフランス流政治学を学ぶかたわら、新政府の兵部省(のちの陸・海軍省)、立法機関である元老院の役人となりました。1874年に、板垣退助らの国会を作れという意見書「民撰議員設立建白書」が新聞に掲載されると、時期が早すぎるとする加藤弘之に対し、大井は馬白台二郎のペンネームを使用して、国会即時開設論をとなえて注目されました。そして、1875年には元老院の少書記となるものの翌年に官界を辞し、代言人(弁護士)として活動しながら、もりあがりはじめた自由民権運動急進派の指導者として活躍をはじめました。

私立の法律学校をひらいたり、新聞記者となって自由民権論をといたりしていましたが、1881年に自由党が結成されるとこれに参加。各地で演説をし、1884年には秩父困民党を指導するなど自由党左派のリーダー格となりました。ところが、1885年、日本の自由民権と朝鮮の政治改革を結びつけて民主主義革命をめざそうとしたことが大阪で発覚(大阪事件)で逮捕され、禁固9年の判決を受けてしまいました。

1889年に憲法発布の大赦により出獄を許されると、中江兆民らと解散していた旧自由党勢力をきゅう合する大同団結運動をおこし、1890年に立憲自由党を結成しました。ところが党主流派と意見を異にしたことで2年後に脱党、東洋自由党を結成して党首となりました。1893年には東洋自由党を解党し、翌年の衆議院議員総選挙に大阪より立候補して当選、1898年には自由・進歩両党合同による憲政党結成に尽力し、憲政党総務を務めましたが、政治家としての限界を感じて引退をしました。

1899年片山潜らと普通選挙期成同盟会(のちの普通選挙同盟)や日本労働協会、小作人の権利を守る小作条例調査会を設立させました。これらは社会運動の先駆けとなっています。大井には、「対外硬運動」という列強に対する強硬な外交をとなえて、アジア変革の指導者でありたいという考えが基本にありました。そのため、1902には海外移民調査会を作って海外移民のありかたを調べ、1905年には満州にわたり翌年関東州労働保護会をこしらえて、労働者たちに満州移民を奨励しました。ところが、そのころはアジア民族との連帯が失われ、一般の侵略的行為との差別がなくなりつつありました。

こうして、「民権と国権の確立」という大井のテーマは、失意のうちに終えてしまったのでした。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

投稿日:2013年10月15日(火) 05:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)