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「神秘的作曲家」 ブルックナー

今日10月11日は、ベートーベン以降最大の交響曲作家とされるオーストリアのブルックナーが、1896年に亡くなった日です。

1824年、オーストリアのアンスフェルデンにオルガン奏者の子に生まれたアントン・ブルックナーは、13歳の時に父が亡くなったのを機に、近くの聖フロリアン教会少年聖歌隊に入りました。付属の音楽学校で音楽理論やバイオリンとオルガンを学ぶと、リンツに出て教師となるための勉強をするかたわら、オルガン演奏にみがきをかけ、1845年に聖フロリアン教会音楽学校助教授兼オルガニストになりました。それを足がかりに、1856年にリンツ大聖堂のオルガニストとなり、そのかたわら作曲にも意欲を示すようになりました。

1863年にワーグナーの「タンホイザー」初演に深い感銘をえて、作曲家となることを決意、高名なウィーン国立音楽院ゼヒター教授に音楽理論を学びました。翌年最初の「交響曲」(通称0番)を生みだしました。さらに1866年、ウィーンで聞いたベートーベンの交響曲第9番に強い影響を受けます。

1868年、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任すると、多くのエネルギーを交響曲を書くことに集中させ、「交響曲第1番」(1866年)、「交響曲第2番」(1872年)を発表、1873年にワーグナーとあい、その際に「交響曲第3番」をワーグナーに献呈しました。

ところが、当時ウィーンの音楽界を二分していたワーグナー派とブラームス派の確執にまきこまれることになり、ブラームス派の急先鋒の批評家ハンスリックから敵対視され、この時期に発表した「交響曲第4番」<ロマンティック>(1874年)、「交響曲第5番」(1876年)に対し、しつような批判を浴びせ続けられ、一部の人たちは評価したものの、なかなか陽の目をみることはありませんでした。

そして1880年代に入り「交響曲第6番」(1881年)、「交響曲第7番」(1883年)を発表したころから人気が高まり、1884年60歳のときに演奏された「交響曲第7番」は、大成功となり、ブルックナーの名声は世界的なものになりました。

ブルックナーの作品の中心は、その後に発表された「交響曲第8番」(1890年)、「交響曲第9番」(未完成)を含む10曲ですが、いずれも1時間〜1時間40分と長大であること、全体に流れる神秘思想的といわれる神秘性が特長で、楽章中に「ブルックナー休止」「ブルックナーリズム」と呼ばれる大休止や3連音リズムが好んで使われ、大規模な管弦楽による壮大な終楽章で締められる曲は、多くのファンを魅了し続けています。


「10月11日にあった主なできごと」

1841年 渡辺崋山死去…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が亡くなりました。

1915年 ファーブル死去…昆虫の行動研究の先駆者で、『昆虫記』を著わしたことで知られるフランスの生物学者ファーブルが亡くなりました。

1945年 GHQが5大改革を指令…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令。戦後の民主化をすすめる第1弾となりました。

1947年 栄養失調で判事死亡…戦後の食糧不足のなか、国民の多くは配給で足りない分を、違法な「闇米(やみごめ)」や闇市でまかなっていましたが、東京地方裁判所の山口判事は、食糧管理法違反という闇米を取り締まる役目をおっていた責任感から、闇米など違法な買い出しをいっさい拒否したため栄養失調で死亡しました。

投稿日:2013年10月11日(金) 05:36

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)