今日10月9日は、経営不振にあった読売新聞を名実ともにわが国有数の大新聞に育て上げ、日本テレビ網を築きあげた正力松太郎(しょうりき まつたろう)が、1969年に亡くなった日です。
1885年、現在の富山県射水市の土建業者の子として生まれた正力松太郎は、高岡中学、金沢の第四高校をへて、1911年東京帝国大学独法科を卒業後、内務省の役人となりました。1913年には警視庁へ入り、牛込神楽坂警察署長などをへて、警視庁監察官となり、早稲田大学学園騒動や米騒動を鎮圧するなどの功績により、警務部長までのぼりつめました。
しかし、1923年の年末におきた大正天皇の摂政官裕仁(のちの昭和天皇)を狙撃するという「虎ノ門事件」を防げなかった責任をとって辞職すると、後藤新平の世話により、1924年に営業不振だった読売新聞の社長に就任しました。以来、新聞に日本初の「ラジオ版」を創設するなど新企画をつぎつぎに提案、常に新しいものに大胆に挑戦したことで、同新聞を大新聞に育て上げました。1934年に野球の本場大リーグ選抜チームを招待して、プロ野球チーム「巨人軍」の前身である大日本野球倶楽部を創立させたこともそのひとつで、「プロ野球の父」ともいわれています。
ところがその後、太平洋戦争を積極的に推進する大政翼賛会や内閣情報局にかかわったことから、1945年の敗戦後にA級戦犯として逮捕、公職追放されました。1947年に不起訴、釈放された正力は、1952年に日本テレビ初代社長に就任すると、翌年テレビ放送の本放送開始し、力道山のプロレス放送を売り物に、テレビを名実ともに大衆のものにしました。1954年には読売社主となっています。
いっぽう、衆議院選挙に富山2区自民党から出馬して当選をはたすと、連続5回議員選挙に当選、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官、1956年には原子力委員会の初代委員長に就任、5年後に日本に原子力発電所を建設する構想を発表したことで「原子力発電の父」ともいわれました。これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「原子力発電は、わが国の原子力開発の将来に対して長期にわたって重大な影響を及ぼすに違いないのだから、慎重な上にも慎重でなければならない」と、抗議のために辞任しています。
1957年の第1次岸内閣では国務大臣に就任しましたが、1958年には読売社主に復帰。大衆の求めているものを提供する先見性と企画力で、読売新聞を発行部数世界一を実現させ、グループの事業発展に貢献したことはよく知られています。
「10月9日にあった主なできごと」
1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。
1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月にUPUに加盟しました。
1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。