今日10月8日は、暗殺された井伊直弼のあとを受けて幕政を主導し、皇女和宮の降嫁を実現させるなど、幕府の権威失墜防止につとめた安藤信正(あんどう のぶまさ)が、1871年に亡くなった日です。
1819年、磐城(いわき)国平藩9代目藩主の長男として江戸藩邸に生まれた安藤信正は、幼いころから文武を修め、経世救民法をまなびました。27歳のときに藩地へおもむき、1847年父の死により10代藩主となって、領民から仁君としてあがめられる存在となりました。
信正が徳川幕府の職制に加わったのは、1848年江戸城中における武家の礼式を管理する奏者番になってからで、1851年には寺社奉行、1858年に大老井伊直弼のもとで若年寄となるほど、出世コースをひたはしりました。ところが、井伊直弼が朝廷の了解をえないまま独断で日米通商条約を締結したことや、反対派をつぎつぎと処罰する「安政の大獄」などに反発した人たちが、1860年3月に「桜田門外の変」で井伊直弼を暗殺すると、老中になったばかりの信正は、久世広周(くぜひろちか)と共に、老中首座となって幕政をとりしきる最高権力者となりました。
信正が行った政治は、井伊の強硬路線を否定し、朝廷と幕府が協力しあうというものでした。この政策は「公武合体策」というもので、弱体した幕府が朝廷の権威を借りて、支配力を強化しようという意図がありました。この政策をより具体的にすすめるために、孝明天皇の妹の和宮を、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の夫人にしたいと4月に朝廷に提案、ねばりづよい交渉の上、8月に勅許をえることに成功しました。これは、信正のもっとも大きな功績といってよいでしょう。
その頃、日本国内の政情不安によりアメリカ公使館通訳ヒュースケンが殺害されるなど、さまざまな問題が起こりましたが、アメリカに南北戦争がはじまったため日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれらを処理することに成功しました。また、諸外国と通商条約を結んだことで問題化していた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めました。
ところが1862年1月、信正は和宮降嫁問題にうらみをいだいた尊王攘夷派の浪士の襲撃を受け、背中に傷をうけてしまいました(坂下門外の変)。また、和宮降嫁は、朝廷の幕政への介入という結果につながり、信正らが桜田門外の変の処理やアメリカ公使ハリスへ不正があったなどと指摘され、4月に信正は老中を罷免され、隠居・謹慎を命じられたました。さらに、石高を減らされ、永蟄居(えいちっきょ)を厳命されてしまいました。
永蟄居は、1866年の家茂死去により許されましたが、1868年に明治政府が立ち上がり、戊辰戦争がはじまると、信正は奥羽の諸大名と手を結んで官軍と戦おうとしたという嫌疑がかけられ、居城の磐城平城は落城、翌年信正は許されたものの、2年後に病没してしまいました。
「10月8日にあった主なできごと」
1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。