今日9月25日は、明治期に「東の渋沢・西の五代」といわれ、関西商業界を代表する活躍をした実業家の五代友厚(ごだい ともあつ)が、1885年に亡くなった日です。
1836年、薩摩藩士の儒学者の次男として、鹿児島城下に生まれた五代友厚は、1842年に児童院の学塾に入りました。1850年に父が藩主の島津斉彬から、世界地図の模写を命じられ、父は友厚にこの仕事を手伝わせたことで、世界の広さと、小国でありながらイギリスの支配領域の広さに驚嘆しました。1854年に薩摩藩の役人になると、それ以後、長崎にできた海軍伝習所で、オランダ士官から、航海、砲術、測量などを学び、上海をおとずれて藩の蒸気船の買い入れに成功して、その船長となりました。
1865年、藩の命をうけて、留学生14名を連れて、イギリスをはじめヨーロッパ各国を歴訪。日本の遅れを痛感して帰国すると、1866年長崎に日本初となる近代ドッグの建設に着手し、長崎製鉄所を設立しました。
明治新政府成立後は、参与兼外国事務局判事となって諸外国との交渉にあたり、やがて大阪府判事となりました。そして伊藤博文とともに、大阪、神戸の豪商たちを説得して、開港したばかりの大阪に銀行や商社をこしらえて、貿易の主導権を外国商人に奪われないようにこころをくばり、初代大阪税関長に就任しました
1869年には役人をやめ、民間人として実業界へ入り、国益に貢献する決意を固めました。金銀分析所や大阪活版所を設立、活版所では日本初の英和辞書を印刷しています。いっぽう、明治政府の指導者と接することも忘れず、とくに内務卿大久保利通との関係はふかく、1871年造幣局(現・大阪造幣局)の設立は、五代の提案でした。1873年には、全国の鉱山開発を管理する「弘成館」を設立して、日本の鉱山王といわれました。また、半田銀山(福島県)の経営をはじめたり、藍の製造工場、堂島米商会所を設立するなど、つぎつぎに新事業にのりだしました。
1878年には、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭に就任、関西商業界を代表する存在となっていきます。さらに、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪青銅会社(住友金属工業)を創設させたり、共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立させて、大阪湾の近代化につとめました。
しかし1881年、五代の設立した関西貿易社が、北海道開拓使の官有物を安い価格で払い下げたとして、悪名高い「開拓使官有物払下げ事件」として、自由民権派勢力を中心に激しい非難をあびてしまいました。そのため、この払下げは中止となり、政府は国会開設の詔勅(天皇による文書)を出して、人心を沈めたことはよく知られています。
その後も五代は、関西商業界に重きをなし、大阪商船(現・商船三井)や大阪堺鉄道(南海鉄道)を設立するなど活躍をつづけましたが、病に倒れ、49年の生涯を惜しまれながら閉じました。「天下の財は、私有すべきにあらず」の信念で、負債だけが残っていたということです。
「9月25日にあった主なできごと」
1829年 シーボルト国外追放…1年ほど前に、幕府禁制品とされていた日本地図などを国外に持ち出そうとしたこと(シーボルト事件)で、捕えられていたシーボルトが、国外追放・再渡航禁止処分となりました。
1936年 魯迅死去…20世紀初頭の旧中国のありかた・みにくさを鋭く批判した『狂人日記』『阿Q正伝』を著した魯迅が亡くなりました。