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「産児制限運動」 のサンガー夫人

今日9月6日は、アメリカの産児制限(受胎調節)運動の指導者として、生涯活動しつづけたサンガー夫人が、1966年に亡くなった日です。

1879年、ニューヨークに生まれたマーガレット・サンガーは、看護婦学校を出たのち、結婚して3児の母になり、1910年ころから労働運動にたずさわりながら、マンハッタン東部の貧民街で看護婦として働くようになりました。貧しい女性が多産や中絶で命を縮めるのをまのあたりにするうち、そんな女性を救うのは労働運動ではなく、的確な避妊情報を提供することだと確信し、産児制限運動をはじめることを決意しました。

そして1914年、産児制限の普及を目的とした新聞を始め、1916年には、貧民街に家族計画と産児制限のための診療所を開設しました。しかし当時は、避妊情報はわいせつとみなされ、サンガーはわいせつ郵便物を送付したことで逮捕されてしまいました。起訴を逃れるためにサンガーは、1年間ヨーロッパに渡り、避妊に関する思想や方法を学びました。帰国後に活動を再開、『全ての娘が知るべきこと』や『全ての母が知るべきこと』を出版して、月経などに関する基礎的な知識や思春期の性についても理解を広めようとしました。しかしサンガーは、1917年に「社会の邪魔者」として投獄されてしまいました。

そんな長い迫害ののちに出所した1921年、サンガーは全米産児調節連盟 (ABCL) を設立しました。1922年には、日本に渡り、加藤シヅエと共同して産児制限運動を推進しようとしました。ところが日本政府の「産めよ、増やせよ」という人口政策のために、講演会はほとんど中止され、わずかに医師や薬剤師のみとなってしまいました。しかし、通訳をつとめた山本宣治らによって、日本にも根をおろすようになりました。

1923年、ABCLの後援によりアメリカ初の合法的な「産児制限診療研究所」(1940年、サンガーの功績をたたえて「マーガレット・サンガー研究局」となる)をつくるなど、じょじょに支持者を増やしていきました。カトリック教会など強い反対にもかかわらず、1930年代末には、産児制限の合法化を獲得し、アメリカ各地に産児制限相談所がもうけられるようになりました。第2次世界大戦後、サンガーは運動を国外にも広げ、世界的な家族計画運動の指導者として知られるようになり、日本へも数回訪れています。

1960年代の初めには、開発されたばかりの経口避妊薬の利用を推進したことでも知られ、87歳で亡くなった1966年には、避妊具利用の指導を禁止したコネチカット州法が違憲とされ、アメリカ国内で夫婦間の産児制限が合法化されることとなったことは、50年にわたるサンガーの闘いの総決算といわれています。


「9月6日にあった主なできごと」

1522年 初の世界周航…スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだマゼラン隊の一せきが、人類初の世界一周をはたしました。

1858年 広重死去…「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・安藤(歌川)広重 が亡くなりました。

1998年 黒沢明死去…『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督の黒沢明が亡くなりました。

投稿日:2013年09月06日(金) 05:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)