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日本活版印刷を創始した本木昌造

今日9月3日は、近代技術の黎明期に、通詞・活版・造船・製鉄などの分野に幅広い活躍をし、わが国の鋳造活字印刷の創始者となった本木昌造(もとき しょうぞう)が、 1875年に亡くなった日です。

1824年、長崎の名主北島家に生まれた昌造(幼名・作之助)は、1834年にオランダ通詞(つうじ=通訳)が家業である母方の本木家へ養子に出され、オランダ語を学び、オランダ舶来の書物に接したことで、西洋文明に憧れをもつようになり、やがて通詞役となりました。1848年にオランダ製の蘭書植字版・印刷機を譲り受けた本木は、洋書の復刻印刷を試み、1851年には鉛製の日本文字活字をこしらえて、自著のオランダ語辞典『蘭和通弁』を、技術は未熟ながらも、印刷に成功しました。いっぽう1854年、ロシア使節プチャーチンが下田に来た際は、幕命により条約交渉の通詞を担当しています。

1855年、長崎に幕府の海軍教育機関「海軍伝習所」が開設されると、オランダ蒸気船取扱掛を任じられ、さらに活字判刷掛も命じられました。そのため通詞、造船、乗船操縦などを通じ、いちはやく海外の文化や先進技術を吸収することができました。1860年長崎製鉄所の御用係に任命されると、イギリスより蒸気船を買い入れ、自ら船長となって、江戸などへ航海をしています。

1869年、長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立すると、当時の活字技術の理論と実技の世界的な権威といわれたアメリカ人ウィリアム・ギャンブルから、本格的な活版印刷のための活字鋳造と組版の講習を受けました。翌1870年本木は、長年の夢を実現するために製鉄所を退職、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾「新街新塾」と付属の活版所を創設して、活字の製造と印刷業を始めました。さらに門人の五代友厚の協力をえて、1871年には弟子たちを大阪に送って、支所(のちの大阪活版所)を設置しています。

しかし、本木のめざした活版印刷・造本・出版の仕事は、技術は立派に開発されたものの、事業としては苦戦つづきでした。そのため、これらの事業の経営は、門人の平野富二に委託して、引退を決意します。本木の志をひきついだ平野は、みるみるうちに業績を回復させ、1872年に東京・佐久間町に活版製造所を開設し、左院(のちの印刷局)に、本木の開発した数万本もの活字を売りこむことに成功しました。また、陽其二(そのじ)を横浜に派遣して活版所を開設。この活版所はのちに、わが国初の日刊新聞「横浜毎日新聞」の創刊につなげています。また、佐久間町の活版製造所は翌年、築地に移転して「築地活版所」となり、後年佐久間貞一の「秀英社」(大日本印刷の前身)と並んで、活版界の二大勢力に発展させています。

引退後の本木は、『新塾余談』を刊行していましたが、家庭内の不幸や長年の借財などからの過労が続いて健康が悪化、1875年に小康をえたことで、弟子たちに勧められて大阪活版所を訪れる途中で倒れ、日本の「文明開化」に貢献した波乱の生涯を閉じました。


「9月3日にあった主なできごと」

1189年 奥州藤原氏滅亡…平泉(岩手県)を中心に藤原清衡・基衡・秀衡と3代、およそ100年も栄えた藤原氏でしたが、秀衡が源義経をかくまったことがきっかけとなって、4代目の泰衡が源頼朝軍に滅ぼされました。清衡の建造した中尊寺金色堂(国宝)には、藤原氏4代のミイラが残されています。

1658年 クロンウェル死去…イングランド共和国の初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名) となったクロンウェルが亡くなりました。

1841年 伊藤博文誕生…明治時代の政治家で、初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣になった伊藤博文が生まれました。

1969年 ホー・チ・ミン死去…ベトナムの革命家で、フランス植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導したホー・チ・ミンが亡くなりました。

投稿日:2013年09月03日(火) 05:56

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)