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「公武合体策」 と和宮

今日9月2日は、孝明天皇の妹でありながら、公武合体政策により江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の正室となった和宮(かずのみや)が、1877年に亡くなった日です。

1846年、仁孝天皇の第八皇女(おうじょ)として、京都御所に隣接する橋本邸に生まれた和宮は、6歳のとき、異母兄である孝明天皇の命で、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と婚約をしました。

そのころ、大老井伊直弼が主導する徳川幕府は、1858年6月に天皇の許可を受けることなく日米修好条約に調印したり、将軍の跡継ぎ問題もからんで、朝廷と幕府の関係は悪化していました。1860年3月に、井伊が暗殺される事件がおこり、その後に実権を握った老中の安藤信正は、朝廷との関係を修復し、朝廷の権威を借りて幕府の権力を強め、折からの尊王攘夷運動に対し尊王をもって対抗したいと考えました。これがいわゆる「公武合体策」で、14代将軍徳川家茂の御台所として、孝明天皇に、妹・皇女和宮の降嫁(こうか)を要請したのです。

孝明天皇は、幕府の執ような要請に対し、当初は断固としてことわりましたが、岩倉具視に「和宮の降嫁が実現すれば、10年以内に条約破棄か攘夷(外国追い払い)を実現するという誓約をとる」ことを進言されて、これを決意、和宮もいやいやながら承諾しました。こうして、1861年、内親王「親子(ちかこ)」と名を与えられた和宮は、10月に14代将軍家茂との結婚のために京都を出発、中山道を通って江戸へむかいました。この和宮降嫁の行列の長さは、延々50キロにもわたったといわれています。11月に無事到着し、翌年2月に江戸城で婚儀がおこなわれました。

二人の仲はむつまじいものでしたが、4年後の1866年7月に家茂は、第2次長州征伐出陣中に大坂城で病死、さらに孝明天皇も死去したことで、同年12月に髪をおろして「静寛院宮(せいかんいんのみや」を名乗りました。

やがて明治維新で幕府が崩壊するとき、和宮は、征夷大将軍となって江戸攻略をめざすかつての婚約者有栖川宮熾仁親王に、徳川家の存続を嘆願し、江戸城無血開城にも尽力したことはよく知られています。

1868年4月に江戸城を出た和宮は、翌年には京都へ帰り、1874年に東京麻布に居を移し、その3年後箱根に静養中、32歳で亡くなりました。亡がらは、遺言により芝増上寺の家茂の墓のとなりに葬られています。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマではオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシャのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

投稿日:2013年09月02日(月) 05:34

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)