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「姉川の合戦」 と浅井長政

今日8月28日は、織田信長と同盟を結び、近江一帯をおさめる戦国大名となった浅井長政(あさい ながまさ)が、信長と不和になって敗れ、1573年に自刃した日です。

浅井(あざいともいう)家の祖先は、鎌倉時代より北近江(滋賀県北部)に土着して、守護・京極氏の家臣として仕えてきました。祖父亮政(すけまさ)の代に、京極氏に代わってこの地域をおさめていましたが、1545年に長政が父久政の子として生まれたころは、南近江の守護だった六角氏との合戦に敗れ、祖父の代に手に入れた領地を失っていました。

六角氏に圧迫され、長政は母とともに六角氏の人質になり、六角家の当主だった六角義賢(よしかた)の一字を取り浅井賢政と変えられたばかりか、結婚相手も六角家の家臣の娘が選ばれました。 賢政(長政)は、そのように六角家に牛耳られている状況を快く思わず、1559年に嫁を離縁すると、六角家からの独立を訴えて挙兵、翌1560年に六角家2万の大軍を、越前国朝倉氏の援軍を受けた1万の軍勢で討ち破りました。そして、父を隠退させて家督を継ぎ、名を長政にもどして小谷(おだに)城主となりました。

そんな長政に注目したのが織田信長です。信長は当時、美濃の斉藤龍興(斉藤道三の孫)との戦いに明け暮れており、長政と同盟すれば、龍興を南と西からはさみうちすることが可能になります。さらに京への進路も手に入れることができると考えた信長は、当世一の美女といわれた妹の「お市」を長政に嫁がせ、同盟を結びました。思惑通り、信長は龍興を滅ぼして美濃国を手に入れ、足利義昭を保護・護衛して、将軍職に復帰させるという大義名分を持って京都への進軍を開始しました。1568年、その途上にある六角義賢の観音寺城を長政と共同で奪いとり、さらに西の朽木(くつき)氏もほろぼして、長政は信長のおかげで、いっきに近江国一帯をおさめる戦国大名にのしあがりました。長政とお市もなかむつまじく、浅井家と織田家の関係は良好なものでした。

ところが、信長が京都を制圧し、足利義昭が正式に将軍職についたことで問題が生じました。将軍義昭と信長の発した「京都に参内せよ」という命令書を、朝倉家が無視し続けたことが原因でした。たびかさなる要請を無視された信長は怒り、朝倉家討伐の兵を挙げました。ところがこれは、「朝倉家とは敵対しない」とした浅井・織田同盟の条約違反でした。織田家と朝倉家の板ばさみとなった長政は、 古くからの家臣や父久政の「六角家との戦いで受けた朝倉家の恩を忘れてはならない」という主張に、朝倉義景につくことを決意したのです。こうして、長政が織田軍の背後を襲ったことで形成が一転し、はさみうちされる危険に陥った信長は撤退を決意し、徳川家康と木下藤吉郎(のちの秀吉)がしんがりつとめ、苦しい退却をしました。大激怒した信長は、すぐさま態勢をととのえると、浅井・朝倉連合軍を打ち破りました。この戦いは「姉川の合戦」(1570年) といわれ、信長の生涯の中でも一大ポイントとなったものでした。

その後、長政は小谷城に撤退。この城は難攻不落として知られていたため、信長は無理に攻撃せず軍勢を帰還させました。ばんかいをねらった浅井・朝倉軍は京都方面に進み、織田家の守備軍を討ちやぶってその一帯を制圧しました。ところが織田軍の本隊が迫ると、比叡山延暦寺の援助を受けて山に陣を構え、織田軍に対抗しました。このとき、正親町(おおぎまち)天皇の停戦命令により、長政は兵を引きあげました。しかし、信長は怒りがおさまらず、翌1571年に比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。そして1573年8月、信長はふたたび浅井・朝倉家への侵攻を開始します。越前の朝倉義景を一乗谷を襲って滅亡させると、小谷城に篭城している長政を攻めました。さすがの堅城も、織田の大軍の猛攻により落城し、長政は妻のお市と3人の娘を城外に脱出させ、最後の篭城戦で、父久政とともに自刃したのでした。

お市はのちに、柴田勝家と結婚。3人の娘たちはそれぞれ、激動する世を歩んでいきました。長女「茶々」は 豊臣秀吉の夫人となって、豊臣家の跡つぎとなる秀頼を生んで「淀君」として権勢をふるい、次女 「初」は 京極家を復興させた京極高次に嫁ぎ、三女「江(ごう)」は徳川家の2代将軍秀忠の妻となって、3代将軍家光を生みました。浅井家はほろびましたが、長政の血筋が、その後の歴史の中に続いていったことはよく知られています。


「8月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

投稿日:2013年08月28日(水) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)