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安保改定を強行した岸信介

今日8月7日は、自民党を結成し、総理大臣を2期つとめた政治家の岸信介(きし のぶすけ)が、1987年に亡くなった日です。

1896年、現在の山口市に山口県庁役人の二男として生まれた佐藤信介は、子どものころから成績優秀で、中学生の時に父の生家である岸家の養子となりました。山口県人の多くには、明治維新を主導し、明治国家を建設したという自負心が強くまん延していて、岸もまた、郷土の大先輩である高杉晋作の著作を読み、政治家を志すようになりました。1914年に上京して、第一高校をへて、1917年に東京帝国大学法学部に入学し、北一輝の思想に魅了されたり、憲法学者上杉慎吉の主宰する国家主義的な学生団体「木曜会」に入り、その有力メンバーとなりました。しかし、会が国体問題につき、天皇をあまりに神聖視するのに共鳴できずに脱退しています。

1920年に大学を卒業すると、農商務省に入って要職を歴任。1936年には、軍部が中国東北部にこしらえた「満州国」の役人として、植民地支配の仕事にたずさわりました。やがて「産業開発5ヶ年計画」を実施するなど、満州国総務庁次長となって軍部・財界・官界に広い人脈をきずき、満州国における大物の1人に数えられるほど、らつ腕をふるいました。

1939年に帰国すると商工次官に就任し、1941年10月に発足した東条英機内閣の商工大臣として入閣、1943年には国務大臣となって戦争経済を担当しました。しかし、1944年7月にサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となると、東条批判派のリーダーとなり、東条内閣総辞職の要因をこしらえています。

敗戦後は、その経歴から太平洋戦争A級戦犯容疑者として逮捕され、公職を追放されました。1953年に公職追放が解除されると政界へ復帰、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると、幹事長に就任しました。1956年に石橋湛山内閣の外務大臣となり、翌年に石橋首相が病気のために退任すると、後任の自民党総裁を引きつぎ、第56代内閣総理大臣に指名されました。

就任後に岸は、「内外における国家の強化」を基本方針にかかげ、内政では、幹事長時代に作った経済自立5ヵ年計画を修正して新5ヵ年計画としたほか、国民健康保険法(1958年)、国民年金法(1959年)など福祉政策を意欲的に推進し、教職員の勤務評定(1958年)を導入しました。外交では、「日米新時代」をスローガンに、日本とアメリカ合衆国との間の相互協力と、日米安全保障条約(安保)の改定に尽力し、1960年5月に安保条約の改定を強行、採決を阻止しようと本会議場にすわりこんだ社会党議員を排除するため、警官を導入しました。これは、強権的政治家としての岸のイメージを強め、爆発的に「安保反対運動」がおこり、20万人というデモが国会を取り巻き、1女学生が亡くなるほどでした。これに対して岸は、安保の批准が行われた6月23日に退陣を表明、翌月総辞職しました。

その後も、影の実力者として政・財界に強い影響力を行使しました。なお、61〜63代内閣総理大臣をつとめた佐藤栄作は実弟、現総理の安倍晋三は、長女とその配偶者安倍晋太郎の子で、岸の孫にあたります。


「8月7日にあった主なできごと」

1831年 十返舎一九死去…弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)の旅行記『東海道中膝栗毛』などで知られる江戸時代後期の戯作者・十返舎一九が亡くなりました。

1941年 タゴール死去…『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが亡くなりました。

1942年 ガナルカナル島の戦い…アメリカ軍の海兵隊が西太平洋ソロモン諸島のガナルカナル島とツラギ島に上陸し、日本軍との戦いがはじまりました。激しい闘いのすえ日本軍は21日までにほぼ壊滅し、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘といわれています。

投稿日:2013年08月07日(水) 05:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)