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『二十四の瞳』 の壺井栄

今日8月5日は、『坂道』『母のない子と子のない母と』『二十四の瞳』など、人間愛の尊さを訴える作品を数多く発表した女流文学者の壺井栄(つぼい さかえ)が、1900年に生まれた日です。

香川県小豆(しょうど)島の醤油樽職人の5女として生まれた岩井栄は、両親と祖母、10人の兄弟姉妹、父がひきとった2人の孤児という大家族の中で育ちました。そのために生活は苦しく、子どものころから子守や内職をしながら、地元の小学校に通いました。まもなく父の取引先だった醤油製造業者が倒産したことで家は破産、栄は渡海業をはじめた父とともに船に乗って、男のようなはげしい労働をしながら生活をささえました。高等小学校卒業後は、村の郵便局や役場に勤めました。郵便局や役場は、村の情報源のような存在で、だれが、どこで、なにをしているかがわかり、後の文学活動の大きな素地になりました。

20歳ころに、郷土の文学青年だった黒島伝治や壷井繁治と知り合い、1925年に上京、プロレタリア作家として知られるようになった壺井繁治と結婚しました。1928年に栄は、当時「婦女界」が懸賞募集していた生活記録に応募して入選、はじめて活字になったものの、作家になろうという気持ちはありませんでした。

やがて夫を通じ、平林たい子、林芙美子、宮本百合子、佐多稲子らと知り合い、創作の筆をとりはじめ、1938年に処女作『大根の葉』を雑誌「文芸」に発表して認められました。1940年には、小豆島の生家を舞台に楽天的に生きる暮らしぶりを描いた『暦』は、新潮文学賞を受賞して、作家的地位を確立しました。

以後、『柿の木のある家』『坂道』『母のない子と子のない母と』など、小豆島を舞台にした庶民的で人間味あふれる作品を次々に発表して、芸術選奨文部大臣賞他を受賞しています。

とくに、1952年に光文社から発表された『二十四の瞳』は、戦後の児童文学を代表するベストセラーになり、1954年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、小豆島の名は全国的に有名になりました。

師範学校を出たばかりの新米女教師大石先生と、12人の教え子との心のふれあいを描いた物語で、日本の戦前期、歴史の動きにほんろうされながらそれぞれの運命のもとに、先生・生徒は別れわかれになります。そして20数年後、先生と生き残った教え子たちが再会するシーンは、戦争をのりこえて生きる人々の感動をよびました。その後も、映画やテレビをあわせて8回映像化され、戦争を知らない子どもたちにも大きな感銘を与え続けています。

なお、壺井栄は1967年に亡くなりましたが、1954年と1987年の2度にわたって映画化された「二十四の瞳」をテーマとする「二十四の瞳映画村」が小豆島にあります。1987年に田中裕子主演で映画化されたときのロケで使用された「岬の分教場」と、大正から昭和初期の民家、男先生の家、漁師の家、茶屋、土産物屋など14棟のオープンセットを公開しているほか、「壺井栄文学館」(壷井繁治や黒島伝治の遺品も展示) などの施設があります。

私は今年の2月末、阪急交通社のツアーに一人で参加し、この映画村を含め、小豆島の名所を堪能してきました。地図では小さく見えるこの島が、東西、南北それぞれ150kmもある大きな島であること、日本三大渓谷美のひとつでロープウェイで昇る「寒霞渓」があるのにもびっくりしました。2月なのに瀬戸内地方特有の温暖な気候と、大小たくさんの島々のちらばるすばらしい景色、そして小学6年の時に観て感動した映画の世界を、なつかしく思いだしました。


「8月5日にあった主なできごと」

1864年 下関戦争…イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が、長州藩(山口県)に戦争をいどみました。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。攘夷の無謀さをはっきりと知った長州は、イギリスに接近し、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになります。

1895年 エンゲルス死去…マルクスと協力し、科学的社会主義を創始したドイツのエンゲルスが亡くなりました。

投稿日:2013年08月05日(月) 05:59

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)