今日7月23日は、困窮する農民たちのために「秩父事件」をおこし、死刑判決を受けながらも逃げ通した井上伝蔵(いのうえ でんぞう)が、1918年に亡くなった日です。
1854年、武蔵国下吉田村(現・秩父市)の旧家の二男に生まれた井上伝蔵(幼名・治作)は、兄が早くなくなったため、20歳のころから父に代わって、呉服や絹・生糸の仲買を営む「丸井商店」を継ぎ、代々の「伝蔵」を名乗りました。商用で上京するうち自由民権運動に共鳴して、1881年に結成された自由党本部に出入りするようになり、1884年、自由党左派の大井憲太郎が秩父地方へ遊説したのをきっかけに、正式に入党しました。いっぽうで、俳句や歌舞伎などにも通じて、いずれは村長や県会議員にもなれるほどの人望を集めていました。
しかし当時、松方正義のデフレ政策のために物の値段が下がり、生糸や布にたずさわる秩父地方の農民たちに生活が困窮する人がたくさんあらわれました。そのため高利貸への借金返済を先延ばししてほしいと役所に請願しましたが、拒否されてしまいました。それをみかねた伝蔵らが中心となって、1884年3月に、秩父困民党を組織して、借金返済延期運動を起こし、役所や高利貸などへでかけて話し合いをもちましたが、成果はえられませんでした。そのため、秩父自由党と秩父困民党は集会を重ね、10月31日に決死の行動をおこすことを確認、翌11月1日3000人の農民が武装蜂起しました。これが「秩父事件」で、伝蔵は会計長という重要なポストにつき、一命を投げ打って闘いました。
この農民の蜂起は、9日に軍隊や警察の前に敗れ、伝蔵は同志の家に身をひそめ、欠席裁判で死刑の判決を受けました。そんな中、弟が逮捕されて拷問を受けましたが、口を割ることなく、残された伝蔵の妻は、捜査の手がまわらないようにと、伝蔵の幼子を抱いて実家へと帰りました。2年間の潜伏中、村人たちは伝蔵の居場所を知っていたようでしたが、だれひとり官憲に密告する者はいませんでした。そして、2年間の潜伏後の1886年、伝蔵は故郷を離れて北へ向かい、翌年北海道へ渡りました。名を伊藤房次郎と変えて、石狩では開拓農民として働いたり代書屋を開業したり、新しい妻をめとって子どももできました。やがて北見地方へ移り、小間物・文具の店を営みましたが、自分が秩父事件を起こしたことは、新しい家族にも秘密にしました。
少しでも生き延びて事件の真の姿を後世に伝え、志を果たせずに刑場の露と消えていった仲間たちの無念を晴らそうとしたのでしょうか。潜伏中も政治には関心を示し、立ち会い演説会ではヤジを飛ばし、警官にとがめられたこともあるそうです。
自分の最期をさとった伝蔵は、妻と長男に自分の本当の素性を知らせ、秩父から呼びよせた先妻や、変名のまま結婚した妻と子どもに見守られながら、数奇にみちた生涯を終えたのでした。
「7月23日にあった主なできごと」
1787年 二宮尊徳誕生…江戸時代後期の農政家で、干拓事業などで農村の復興につくした二宮尊徳が生れました。薪を背負いながら勉学にはげんだエピソードは有名です。
1867年 幸田露伴誕生…『五重塔』などを著わし、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家の幸田露伴が生れました。
1918年 米騒動…富山県魚津の主婦たちが、米穀商が米を買い占め、船で県外へ持ち出そうとするのをこの日にとがめたことがきっかけとなって、米穀商を襲う米騒動が全国規模で拡がり、30名以上の死者と2万5千人以上の逮捕者を出す大事件となりました。