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「横紙破り」 の河野一郎

今日7月8日は、自由民主党の代表格として権勢を誇った政治家の河野一郎(こうの いちろう)が、1965年に亡くなった日です。

1898年、神奈川県豊川村(現・小田原市)の豪農の子に生まれた河野一郎は、小田原中学を経て、1923年早稲田大学政治学科を卒業し、朝日新聞社に入社しました。記者時代に政治家と接触したことがきっかけとなって、1923年に政友会から衆議院選挙に立候補して当選、1942年の翼賛選挙では非推薦で当選しています。

太平洋戦争後、1945年11月に旧政友会の勢力を集め、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党すると、初代幹事長をつとめました。鳩山内閣の結成に奔走するものの、1946年5月、鳩山に公職追放令が下ったため、吉田茂が後継総裁として組閣に取りかかりました。しかし吉田が、旧政党人を軍部に迎合したとみなしたため、二人は犬猿の仲となり、6月には河野も公職追放され、日魯漁業の社長に就きました。

1951年に追放解除となって、三木武吉とともに自由党に復帰した河野は、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走します。しかし1952年の解散総選挙前に、吉田が鳩山派に打撃を与えようと石橋湛山と河野を党から除名、12月に三木の努力が実って除名取り消されました。1953年3月に河野は、鳩山、三木ら21名と自由党から分党、内閣不信任案に賛成投票し、吉田内閣のバカヤロー解散・総選挙へとつながるきっかけを作りました。そして、河野は三木ら8名とともに日本自由党を結成して、自由党反主流派や改進党と連携しながら、ついに3派を合同させ日本民主党を結成、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒しました。

1954年、第1次鳩山内閣の農林大臣に就任すると、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任しました。1956年には、日ソ国交回復につとめ、フルシチョフと渡り合って日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共にその調印にこぎつけました。

その後、建設相、経済企画長官などをつとめましたが、1964年の東京オリンピック担当の国務相として大成功させたことはよく知られています。実行力のある政治家として、国民的な人気をえた河野でしたが、あまりにも個性的で、大胆な行動力が災いしたために、敵も多く、総裁、首相の座にはつけず、東京オリンピックの翌年に急死してしまいました。いちどは、総理の座についた河野の力量がみたかったという人も多くいます。

なお、参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長・自由民主党総裁・新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員の河野太郎は孫にあたります。


「7月8日にあった主なできごと」

1621年 ラ・フォンテーヌ誕生…人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが生まれました。

1979年 朝永振一郎死去…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が亡くなりました。

1994年 金日成死去…朝鮮半島の抗日運動家・革命家として活動、1948年9月にソ連の支援をえて「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)を建国、同国を朝鮮労働党独裁によって支配し続けた金日成が亡くなりました。

投稿日:2013年07月08日(月) 05:31

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)