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「硬骨の裁判官」 児島惟謙

今日7月1日は、「大津事件」で政府の圧力にもめげず、司法権の独立を守り抜いた司法官として知られる児島惟謙(こじま いけん)が、 1908年に亡くなった日です。

1837年に伊予国(現、愛媛県)宇和島藩士の子として生れた惟謙は、生後まもなく母の離婚により、数年間里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、不幸な幼年時代を送りました。そのため姓も金子、緒方、児島と変わっています。しかし、文武の稽古にはげみ、1864年には剣道修行のために、松山、今治、高知へおもむき、翌年には長崎に出て、坂本龍馬らと親交を結びました。1867年に脱藩して京都に潜伏し、勤王倒幕の運動に加わりました。

明治維新後に仕官すると、北陸道御用掛となって、新潟、秋田、盛岡、仙台などにわたったのち、1870年司法省に入って裁判官の道を歩みます。1875年五等判事として福島上等裁判所裁判官時代に、農民たちが税金の納め過ぎを告発した「ワッパ(弁当箱)騒動」を担当、農民に有利な判決をくだして注目されるようになりました。1876年名古屋裁判所長、1881年長崎控訴裁判所長、1883年に大阪控訴裁判所長となって、数々の名判決をくだしました。

1891年大審院長(いまの最高裁判所長に相当)に就任すると、まもなく、児島の名を決定づける「大津事件」が発生しました。この事件は、来日中のロシア皇太子(のちのニコライ2世)がわが国を巡遊中、滋賀県大津市で警護に当たっていた巡査津田三蔵が、皇太子の頭部を切りつけ、負傷を負わせたものでした。総理大臣松方正義ら政府首脳は、大逆罪を適用し、死刑を主張しました。児島は、審理を担当する裁判長以下判事7名を一人ひとりを説得し、普通の殺人未遂罪を適用、無期徒刑の宣告をくだしました。そのため、政府の圧力から司法権の独立を守ったものと高く評価され、「護法の神様」とまでいわれました。当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けました。しかし、児島が司法権の外部からの独立を守ったものの、裁判長以下判事たちの説得にあたったことは、裁判官の判断の独立をみずから侵害したことになります。児島は、その道義的責任から、翌年に大審院長を辞任、その後は貴族院議員となりました。

1898年には愛媛県から衆議院議員に立候補し当選すると、再選もふくめ、1902年まで議会で活躍し、関西法律学校(現・関西大学)の創立に力を貸すなど、教育事業の援助にもつとめています。


「7月1日にあった主なできごと」

770年 阿倍仲麻呂死去…奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり、唐朝の高官に登るも日本への帰国が果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂が唐で亡くなったといわれています。

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中松平定信は、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。


* 明日より5日間、古都・金沢を訪問するため、次回のブログは、8日からとなります。

投稿日:2013年07月01日(月) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)