今日6月26日は、明治時代に文部卿として「学制」を制定するなど、明治政府の主要ポストを歴任した大木喬任(おおき たかとう)が、1899年に亡くなった日です。明治維新のころ大木は、大隈重信、副島種臣、江藤新平とともに「佐賀の四傑」といわれていました。
1832年、佐賀藩士の長男として生まれ大木喬任は、青少年期に藩校の弘道館で儒学を学び、とくに史学に興味をいだきました。読書家で、和漢古今の書からたくさんの知識を得ていたために、「弘道館の知恵者」といわれるほどでした。1853年のペリー来航に刺激され、大隈、副島、江藤らと尊攘思想を養っていきましたが、藩論を尊皇攘夷へと導くことにはいたりませんでした。
1868年に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士や参与(新政府の官職名)をつとめ、外国事務局の判事や京都府判事となりました。そして、東京に首都を移すことを江藤とともに主張し、東京府知事をつとめました。その後1871年に民部卿から文部卿になり、1872年に新しい教育制度である「学制」を制定しました。この制度は、フランスにならって全国を8大学区に分け、1大学区に32中学区、1中学区に210小学校に分けたのを基幹として、全体を文部省が統括するという、日本で初めての近代的学校制度でした。この学制のもとに、1872〜73年以降、小学校が続々と作られることになりました。
1873年に司法卿となった大木は、司法制度を整え、1876年に不平士族たちがおこした「秋月の乱」(福岡)「神風連の乱」(熊本)「萩の乱」(山口)がおこると、現地におもむき、処刑判決の任務を遂行するなどの事後処理に当りました。
以後、元老院議長、天皇の相談にあずかる最高官の「枢密顧問官」、山県有朋内閣の司法大臣、松方正義内閣の文部大臣となるなど、明治政府の主要ポストをつとめあげました。
佐賀の四傑たちは、維新当初こそ開明的官僚として活躍しましたが、江藤と副島は征韓論にやぶれ、大隈が「明治14年の政変」で政府を追放されたのに対し、大木だけは20数年間も高級官僚の地位を確保したのは、他の3人より常識、学識にすぐれていたこと、慎重にことを運ぶ性格と、あまり自己主張しない「もうろう色」の政治家だったからといわれています。
「6月26日にあった主なできごと」
1833年 木戸孝允誕生…大久保利通、西郷隆盛と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。
1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。