今日6月11日は、『沓掛時次郎』『瞼の母』『一本刀土俵入り』など、大衆作家・劇作家として活躍した長谷川伸(はせがわ しん)が、1963年に亡くなった日です。
1884年、神奈川県横浜市に土木業者の子として生まれた長谷川伸(本名・伸二郎)でしたが、3歳のとき母親は父の放蕩がもとで家を出てしまいました。さらに家が破産したため、小学校を3年で中退して一家離散、土工や鳶人足、出前持ちなど、さまざまな仕事につきながら、生活費をかせぎだしました。向上心の旺盛な少年だったことから、町に落ちている古新聞のルビを読んでは漢字を覚えていきました。やがて、体より頭を使う仕事をしたいと、好きだった芝居の評を新聞社に投稿したのがキッカケとなって、1903年その新聞社の雑用係として入社しました。
1905年に志願して騎砲兵第一連隊に入営、除隊後に横浜毎朝新報社に入社しました。たまたま警察回りの記者がやめたことで事件・事故の記事担当となり、他社の記者の書く記事を集めては真似ながら記事の書き方を学んだと伝えられています。やがて、都新聞の劇評家伊原青々園に手紙を書いたところ、伊原の口ききで、1911年から都新聞の演芸欄を担当する記者となりました。
1914年ころ、仕事のかたわら講談倶楽部や都新聞に、山野芋作のペンネームで小説の発表をしはじめ、1922年以降は菊地寛の助言により、長谷川伸として作品を発表するようになりました。そして、1924年に発表した琵琶の名手と青年との恩愛を描いた『夜もすがら検校』が、長谷川の出世作となりました。1926年に都新聞を退社すると、以後は作家活動に専念しました。
戯曲にも強い関心をよせ、1928年に沢田正二郎主演による『沓掛時次郎』が大評判となり、流れ者のばくち打ちを主人公にした、『股旅草鞋(わらじ)』『一本刀土俵入り』なと、いわゆる「股旅物」が新国劇で上演されて注目をあびました。自ら体験した幼い日に別れた実母と対面する『瞼(まぶた)の母』は、新国劇の古典として、今も人気があります。これらは、映画や歌謡曲にもなって、一世を風びしました。
小説では『刺青判官(いせずみほうがん)』『伝法ざむらい』など、大衆文芸に新風をおくりました。その間、革新的な大衆作家団体「二十一日会」や「二十六日会」を結成し、大衆文芸や演劇の向上を目的とした活動を行い、村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎らが育ちました。
戦後は、新人の指導にあたりながら、日本の戦争の歴史をたどった『日本捕虜史』を著し、捕虜問題を通して日本人の民族性を浮き彫りにした書として、菊池寛賞を受賞しています。
「6月11日にあった主なできごと」
1873年 わが国初の銀行…「第一国立銀行」が日本橋兜町に創立し、初代頭取に渋沢栄一が就任、立派な西洋建築は、東京の名所となりました。その後国立銀行は、1879年までに全国各府県に153行が設立されていきました。
1899年 川端康成誕生…『伊豆の踊り子』『雪国』 など、「生」の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家・川端康成が生まれました。
1916年 ジーン・ウェブスター死去…手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』など著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが亡くなりました。