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長期政権を実現した佐藤栄作

今日6月3日は、首相在任7年8か月連続という最長記録をのこし、ノーベル平和賞を受賞した政治家の佐藤栄作(さとう えいさく)が、1975年に亡くなった日です。

1901年、今の山口県布施町に酒造業の子として生まれた佐藤栄作は、1924年に東京帝国大学法律学科を卒業後、鉄道省(国鉄=JRと運輸省にあたる)に入省しました。

戦後の国鉄の労働争議をおさめた手腕を認められ、遠縁にあたる吉田茂のすすめで1948年に退官し、政界入りしました。1949年に衆議院議員に当選すると、1950年に自由党(自民党の前身)幹事長となり、それ以降、郵政大臣、建設大臣など吉田内閣の要職をつとめました。

1954年、「造船疑惑」といわれる大規模な汚職事件が明るみに出て、これにかかわった佐藤は逮捕寸前となりましたが、当時の法務大臣の検察指揮権発動により、逮捕をまぬがれました。その後、大蔵大臣、通産大臣にもなって自由民主党の有力議員となり、実兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任して、三木武夫とともに岸政権を支えました。続く池田勇人内閣でも要職を務めましたが、池田の高度成長路線には批判的な立場を取りました。

1964年に佐藤は、池田の三選阻止を掲げて自民党総裁選挙に出馬すると、わずかの差で池田に敗れたものの、池田の病気退陣により自民党総裁にばってきされ、内閣総理大臣に就任しました。以後4回にわたって組閣し、1972年に退陣するまで、首相在任7年8か月連続という最長記録をつくりました。1965年には日韓基本条約を結んで韓国との外交を正常化しました。1970年には日米安全保障条約を自動延長して国民の強い批判をあびましたが、現職首相として沖縄をはじめて訪問、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と沖縄返還に執念を燃やして、1972年に実現させました。

その間、「黒い霧事件」に見られるようないくつものスキャンダルに見舞われ、政治の手法も華やかなものはなく、在任中の支持率は決して高くなかったにもかかわらず、長く佐藤政権がつづいたのは、日本経済が高度成長を続けて好景気だったことが要因でした。野党にも多党化がすすんだこと、大野伴睦や河野一郎といったライバルが亡くなったこと、党内の人事を上手に行ったこともあげられます。

佐藤は、退陣後の1974年、非核三原則(核をつくらず、保有せず、持ち込みさせず)に基づく外交を展開したことが評価されて、ノーベル平和賞を授与されましたが、これは、内外で賛否両論をまきおこしました。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディとソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。

投稿日:2013年06月03日(月) 05:02

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)