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反戦主義を貫いた新藤兼人

今日5月29日は、『原爆の子』『裸の島』『一枚のハガキ』など、社会性あふれる話題作を数多く制作した映画監督・脚本家の新藤兼人(しんどう かねと)が、2012年に100歳で亡くなった日です。

1912年、今の広島市佐伯区の豪農の子に生まれた新藤兼人でしたが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散してしまいました。1933年、尾道の兄の家に世話になっていた時に見た映画に感激し、映画の世界で生きる決意をしました。翌1934年、京都の新興キネマに入り、仲間からは酷評されながらも暇をみつけてはシナリオを書き続け、落合吉人が監督に昇進すると脚本部に推薦され、『南進女性』で脚本家デビューをはたしました。

その後、興亜映画に入り、1944年に興亜映画が松竹に吸収されて脚本部へ移籍した直後に召集され、二等兵として呉海兵団に入団しました。年下の上等兵の若者に、木の棒で気が遠くなる程たたかれ、こき使われました。召集を受けた仲間100人がクジびきで次々に出撃し、終戦をむかえたときに生き残ったのはわずか6人だったという戦争体験が、新藤の映画制作の原点となりました。

敗戦後、松竹大船撮影所に復帰すると、『待ちぼうけの女』『女性の勝利』などのシナリオを手がけて評判になり、1947年に、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表すると大ヒットしてキネマ旬報ベストテン1位を獲得、シナリオライターとしての地位を固めました。さらに『わが生涯のかゞやける日』や、木下恵介と組んだ『お嬢さん乾杯!』など、ヒットを連発させました。

ところが、1949年の『森の石松』の興行的失敗などで松竹首脳らと対立すると、1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先がけとなる「近代映画協会」を吉村公太郎、殿山泰司らと設立しました。自らの苦労時代の記録ともいえる『愛妻物語』のシナリオを読んだ大映の大スターだった乙羽信子が、どうしても妻の役をやりたいと願い出て同作品に主演、この『愛妻物語』(1951年)で、念願の監督デビューを果たすと、翌1952年、『原爆の子』を発表して社会派として注目されました。この作品は、広島で被爆した子どもたちの作文をもとに、その家族がたどる悲惨な生活を描いたもので、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞などたくさんの賞を受賞しました。

1961年には、瀬戸内海の小島にすむ家族の生活を、セリフぬきで表現した映画詩ともいえる『裸の島』をを発表すると、モスクワ国際映画祭でグランプリをとり、新藤は世界の映画作家として認められるにいたりました。この『裸の島』は、出演者やスタッフがロケ地で合宿体制を組み、意見交換をしながら制作するもので、その後の邦画界における独立プロダクションの映画制作に、大きな影響を与えました。そのほか、放射能汚染を題材とした『第五福竜丸』、連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など、人間の苦悩や社会とのあつれきを粘り強くえがいた作品を多く発表しました。

1978年、独立プロ時代から苦楽をともにしてきた乙羽信子と結婚、1995年の『午後の遺言状』が乙羽との遺作となりましたが、1999年にはこの作品を舞台化して、舞台演出も手がけました。

最後の作品となったのは、2011年公開された『一枚のハガキ』で、応召した100人のうち6人が生き残ったという原体験を、ひょうひょうとしたタッチで描いた作品で、孫の押す車いすに乗りながら、テキバキと指示する姿は、とても98歳のものではなかったといわれています。この新藤映画の集大成ともいえる作品も、キネマ旬報1位となる高評価をえてヒットさせました。2012年6月、日本政府は新藤が数々の作品を世に送り出した功績を讃え、多年にわたる映画界への貢献を評価して叙勲する閣議決定を行っています。


「5月29日にあった主なできごと」

1917年 ケネディ誕生…わずか43歳で第35代アメリカ大統領となり、対ソ連に対し平和共存を訴え、こころざし半ばで暗殺されたケネディが生まれました。

1942年 与謝野晶子死去…明治から昭和にかけて歌人・詩人・作家・思想家として活躍した与謝野晶子が亡くなりました。

1953年 エベレスト初登頂…イギリス登山隊のヒラリーとシェルパのノルゲイが、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)の初登頂に成功しました。

投稿日:2013年05月29日(水) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)