今日5月27日は、宗教画におおくの傑作を残したフランスの孤高の画家ルオーが、1871年に生まれた日です。
1871年、パリ・コミューン(革命的な自治政府)の騒動のさなか、指物師(さしものし=箱や机などを作る職人)の子としてパリに生まれたジョルジュ・ルオーは、14歳の時、ステンドグラス職人に弟子入りし、修行しながら工芸美術学校の夜間部に通ってデッサンの勉強をしました。
1890年、画家を志したルオーは、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学すると、マチスとともに象徴派の巨匠ギュスターブ・モローの指導を受けました。モローは、自分の作風を押しつけることなく、全く資質の異なる2人の能力をじょうずに引き出しました。ルオーは、終生にわたって師モローを敬愛し、1898年に亡くなると、その作品を集めたモロー美術館の初代館長となって、住み込みで働きました。しかし、給料が安いために、生活は苦しく、支配階級のいやらしさや人間のみにくさに良心をさいなまれたと記しています。
1903年、モローは自己の進むべき道を見出し、マチスらとともにサロン・ドートンヌの創立に参加すると、アカディズムへ反逆する画家たちともに、本格的な活動を開始しました。独特の黒く骨太の輪郭線ときらびやかな色彩があらわれはじめ、キリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、貧しく弱い立場にいる人々を愛情をこめて描きました。
1913年からは、画商ボラールと専属契約を結び、ボラールのすすめで版画の連作を開始し、『ミゼレーレ』『悪の華』『流星のサーカス』などにより、20世紀のもっとも傑出した版画作家ともいわれています。やがてルオーの絵には、宗教的色彩を帯びた作品が多くなり、以前の人生の苦しみや悲しみに絶望する表現から、神のいつくしみや救いの世界へテーマが移っていき、連作『受難』や、『聖顔』『老いた王』『ベロニカ』などの傑作を生み出していきました。
しかし、ボラールとの契約は、ルオーにとって不幸なことでもありました。ボラールは、ルオーの作品をすべて自分の倉庫にしまいこんだために、ルオーは、展覧会にも出品できず、一般の人たちに忘れられた存在になってしまいました。ルオーが大家として認められ出したのは、1930年前後からで、1937年にパリで開かれたアンデパンダン巨匠展に出品された42点のルオーの作品は、圧倒的な人気を博したといわれています。
ルオーは第2次大戦後も制作を続け、1945年にはフランス東部にあるアッシー教会のためにステンドグラスを制作しました。1958年、パリで86年の生涯を終えたときは、国葬でおくられました。
なお、オンライン画像検索では、ルオーのたくさんの作品他を見ることができます。
「5月27日にあった主なできごと」
743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。
1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが亡くなりました。
1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。