今日5月22日は、ローマ帝国皇帝として4分割されていた帝国を再統一し、キリスト教の公認とその統一、都をコンスタンティノーブルに移して全盛期を築いたことで、「大帝」と称されるコンスタンティヌス1世が、337年に亡くなった日です。
ローマ帝国の属州(現セルビア)の貧民から身をおこし、西ローマの副帝となったコンスタンティウス1世の子として274年ころに生まれたコンスタンティヌスは、幼いころ、ディオクレティアヌス帝の人質となって、その宮廷で育ちました。そのとき、キリスト教徒への大迫害を目のあたりにしました。
ディオクレティアヌス帝の定めた帝国4分割統治の一つを、軍隊に推されて統治することになったコンスタンティヌスは、312年に宿敵のマクセンティウスをミルビア橋の戦いで破って、西ローマ帝国全体の支配者となりました。この戦いで、空に光る十字架と、これに勝てという文字が、キリスト教へ改宗するきっかけになったといわれています。
313年、コンスタンティヌスは、イタリアとアフリカを統治する皇帝を攻め、東方を統治するリキニウス帝と組んで、連名で「ミラノ勅令」を出しました。これは、キリスト教が他の宗教と平等の待遇を受けるというもので、当時大きな勢力になっていたキリスト教を公認し、帝国の統一に役立てようとするものでした。
これに反対するマクシミヌス・ダイア帝がリキニウス領土に侵攻すると、リキニウスはこれを破って東ローマの支配を取りもどしました。ところがその後、コンスタンティヌスとリキニウスは敵対するようになり、320年にリキニウスが「ミラノ勅令」を無視してキリスト教徒に迫害を加えると、やがてコンスタンティヌスとの対決につながって内戦となりました。この宗教戦争というべき内戦は、数では劣ったものの熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年のハドリアノポリス、ヘレスポントス海峡などの戦いでリキニウス軍を破って、全ローマ帝国の皇帝となりました。
独裁君主となったコンスタンティヌスは、イエス・キリストと神との関係の対立により分裂していた教会を「ニケーア会議」を開かせて、「神とキリストは同一であるとする主張」(三位一体説)を正当なものにして、統一をはかることに成功しました。
さらにコンスタンティヌスは、ローマからビザンティウム(今のトルコ最大の都市・イスタンブール)に遷都し、「コンスタンティノーブル」と名を変え、軍政、通貨・官僚制を改革し、ローマ帝国の勢力を全盛期のころに挽回することに力をつくしました。
「5月22日にあった主なできごと」
1333年 鎌倉幕府滅亡…新田義貞が鎌倉幕府の執権北条高時を討ち、鎌倉幕府が滅びました。
1775年 蒸気機関の特許…イギリスのエンジニアであるワットは、凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこなって、この日特許を取得しました。ワットの蒸気機関は、鉱山や工場で広く用いられ、産業革命の原動力となりました。