今日5月16日は、明治憲法・皇室典範などの制定にたずさわり、司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官などを歴任した金子堅太郎(かねこ けんたろう)が、1942年に亡くなった日です。
1853年、福岡藩下級武士の長男として、現在の福岡市に生まれた金子堅太郎(幼名・徳太郎)は、1863年に藩校の修猷(しゅうゆう)館に学びました。成績が優秀だったことから、1871年岩倉使節団に同行した旧藩主の随行員として、団琢磨とともにアメリカに留学しました。ボストンの小・中学校をへてハーバード大学法学部に入学。小村寿太郎と同宿して勉学に励みました。
1878年に卒業して帰国すると、民間にあって時事的な論説の発表や講演、私擬憲法の執筆、東京大学予備門の英語教員をするなどの活動をしました。1881年にフランス革命を批判した英国のエドマンド・バークの著書を抄訳した『政治論略』を元老院から出版すると、これがきっかけとなって井上毅(こわし)と親しくなり、1885年内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上や伊東巳代治とともに大日本帝国憲法・皇室典範などをつくる仕事にたずさわり、とくに衆議院議員選挙法と貴族院令は、当初から金子が中心となって立案されました。
1889年2月大日本帝国憲法が発布されると、7月から翌6月まで「英訳憲法義解」をたずさえて欧米諸国をまわり、著名な学者や政治家にあって、日本の新憲法の理解をもとめました。帰国後、日本法律学校(日本大学の前身)初代校長、貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長などを歴任。1898年には、第3次伊藤博文内閣の農商務大臣となり、1900年に伊藤が「立憲政友会」を創立させると総務委員をつとめ、同年の第4次伊藤内閣では司法大臣となって、一貫して伊藤をささえました。
1904年、第1次桂内閣がロシアとの開戦を決意し、2月に「日露戦争」が勃発すると、金子は、ハーバード留学時代の級友だったセオドア・ルーズベルト米大統領と面談するために渡米し、戦争遂行を有利に進めるための日本の広報外交を展開しました。そして、1905年8月、日露講和会議(ポーツマス会議)において、賠償金問題と樺太割譲問題で日露の意見が対立して交渉がいきづまったときも、ルーズベルト大統領に援助を求め、講和条約の成立に貢献しました。
日露戦争後は、枢密顧問官(天皇の相談を受ける最高官)として亡くなるまで34年間もつとめ、憲法上の問題では、政府に反対や異議をのべることもありました。その間、『明治天皇紀』編さん・維新史料編さん事業にも総裁としてたずさわり、1933年『明治天皇紀』を完成させた功で伯爵に昇り、1941年には『維新史』6冊を奉呈しています。
生涯にわたって日米友好につとめ、日米開戦を憂慮しながら、89年の生涯を閉じました。
「5月16日にあった主なできごと」
1703年 ペロー死去…『がちょうおばさんの話』(「長靴をはいた猫」「眠れる森の美女」「小さな赤ずきん」「シンデレラ」など名高い民話を語り直した話を収録)を著わしたフランスの童話作家ペローが亡くなりました。
1975年 女性初のエベレスト登頂…日本女子エベレスト登山隊の田部井淳子が、世界で初となる女子世界最高峰登頂に成功しました。さらに田部井は、1992年に女子世界初の7大陸最高峰登頂をなしとげています。