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「日本のロダン」 朝倉文夫

今日4月18日は、日本近代彫刻の流れをこしらえた彫刻家の朝倉文夫(あさくら ふみお)が、1964年に亡くなった日です。

1883年、大分県上井田村(現・豊後大野市)の村長の子として生まれた文夫は、1893年10歳の時に父方の実家朝倉家の養子となりました。1902年竹田中学を中退し、東京で新進気鋭の彫刻家として活躍していた9歳年上の兄を頼って上京しました。兄のもとで助手をつとめるうち、彫刻やその原型を制作する「彫塑(ちょうそ)」に魅せられ、翌年東京美術学校(現・東京芸大)彫刻選科に入学しました。モデルを雇う金がないため、上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授紹介の貿易商の注文による動物像の制作を開始、1907年の卒業までに1200体以上も制作したといわれています。そんな努力が実り、当時海軍省が募集していた海将の銅像コンテストに応募し、1等となって注目され、首席で卒業後、同美術学校研究科へと進みました。

1908年、谷中天王寺町にアトリエをこしらえ、第2回文展(文部省主催の美術展)に『闇』を出展すると、最高賞の2等となりました。翌第3回文展では『山から来た男』、1910年には、アトリエ近くにある谷中天王寺の墓守をモデルにした朝倉の最高傑作といわれる『墓守』が入選をはたしています。友人の荻原碌山の死や、病にふせった弟の看病などにたずさわるうち、急に思いついたようにシンガポール、ボルネオなど南洋の視察へと旅立ちました。帰国後も第8回文展まで7年連続上位入賞を果たし、第10回文展では、34歳の若さで最年少審査員に抜てきされました。

1921年には母校である東京美術学校の教授に就任、ライバルの高村光太郎とともに、日本美術界の重鎮といわれるようになり、1934年にはアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」(後の朝倉彫塑館)を作って後進の指導にあたり、写実的・自然主義的作風は、日本の近代彫刻の主流となっていきました。戦後も、その作風を一貫して保ち続け、1948年には第6回文化勲章を受章しました。非常な多作家で、驚異的な質と量の作品を全国各地に残し、81歳で亡くなりました。

なお、代表作『墓守』などたくさんの作品は、朝倉のアトリエ兼住居を改装した台東区谷中にある美術館「朝倉彫塑館」に展示されています。耐震改装のため2009年から休館していましたが、2013年4月から再開されています。また、朝倉の長女摂は、画家・舞台美術家として、次女響子は彫刻家として活躍中です。


「4月18日にあった主なできごと」

1849年 葛飾北斎死去…『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』など、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、フランス印象派の画家をはじめゴッホ、セザンヌらに大きな影響を与えた葛飾北斎が亡くなりました。

1942年 B25が日本を初空襲…米軍のB25爆撃機16機が、東京、横浜、名古屋などを初めて空襲しました。

1943年 山本五十六戦死…太平洋戦争を進めたときの日本海軍大将の山本五十六が、ソロモン諸島でアメリカ軍の攻撃にあい、戦死しました。日本海軍の暗号が米軍に解読されたのが原因といわれています。

1955年 アインシュタイン死去…相対性理論によって新しい科学を開き、核戦争に反対をとなえた20世紀最大の物理学者アインシュタインが亡くなりました。

投稿日:2013年04月18日(木) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)