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「鬼貫」 鈴木貫太郎

今日4月17日は、明治から昭和期に海軍軍人として活躍し、太平洋戦争末期の内閣総理大臣として「ポツダム宣言」を受け入れた鈴木貫太郎(すずき かんたろう)が、 1948年に亡くなった日です。

1867年、下総国(千葉県)関宿藩士の子として、父の任地和泉国(現・大阪堺市)に生まれた鈴木貫太郎は、4歳のときに関宿町に帰り、1877年に群馬県前橋市に転居しました。前橋中学、攻玉社をへて、1884年に海軍兵学校に入学しました。日清戦争には水雷艇の艦長として従軍、1898年に海軍大学校を卒業しました。

日露戦争では中佐として、駆逐隊司令官として戦いました。高速近距離射法の猛訓練を行ったことで、部下から「鬼の貫太郎=鬼貫」と呼ばれ、敵旗艦スワロフに魚雷を命中させる大戦果を挙げ、日本海海戦の勝利に貢献しました。戦後の大佐時代は、明石・宗谷・敷島・筑波の艦長を歴任して少将となり、水雷艇隊司令官になるなど、水雷戦の権威、戦技の権威として頭角をあらわしていきました。海軍大学校教官、ドイツ駐在武官をへて、1914年には海軍次官となり、日本海軍高官への贈賄事件「シーメンス事件」の事後処理を行うなど行政面でも手腕を発揮しました。そして、1923年海軍大将、1924年連合艦隊司令長官、1925年海軍軍令部長に就任するなど、海軍軍人としての道をのぼりつめました。

1929年、昭和天皇に懇願され侍従長に就任し、予備役となってからは、海軍から遠ざかり、天皇の忠実な側近として仕えました。昭和天皇の話し相手に徹したことで「大侍従長」と呼ばれました。しかし、ロンドン軍縮条約締結のおり、これに反対する鈴木の後任で海軍軍令部長加藤寛治大将を説得にあたったことから、国家主義者や青年将校たちから「君側の奸」と見なされました。そのため「二・二六事件」では、反乱軍に銃弾3発を受ける重傷をおい、侍従長を辞任しました。その後も枢密顧問官をつとめ、1944年には枢密院議長となっています。

太平洋戦争末期の1945年4月、小磯内閣の総辞職を受け、和平工作を期待されながら総理大臣となった鈴木は、「本土決戦」「一億玉砕」を叫ぶいっぽう、ソ連を通じて終戦の実現をはかる工作を行いました。しかし、連合国による最終的な降伏勧告ともいえる「ポツダム宣言」が発表されると、7月28日の記者会見で鈴木は「宣言を黙殺する」と述べたために、連合国は宣言拒否声明と受け取ったことで、アメリカの広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の理由に使われてしまいました。8月9日の最高戦争指導会議で、皇室の安泰だけを条件に宣言受諾という鈴木らの提案と、もっと多くの条件を取りつけることを主張する陸相らの意見が対立、天皇の聖断で決することになり、夜遅く鈴木らの案に決定しました。

ところが、国体護持をアメリカと交渉中に、アメリカ軍機が交渉内容のビラを日本にまいたことで、14日に御前会議が行われ、宣言の受諾を決め、15日正午の「玉音放送」となったのでした。同日、鈴木内閣は総辞職しましたが、この日の早朝、国粋主義者たちは小石川にある鈴木の私邸を襲撃、鈴木は警護官に間一髪救い出されました。生涯に2度も暗殺の危機を生きのびた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」と語ったといわれています。


「4月17日にあった主なできごと」

723年 三世一身法… 聖武天皇が即位したこの年、農民の人口が増え、耕地が不足したため、田地を開墾した者には、本人・子ども・孫の代まで、その土地の所有を認める「三世一身法」を、この日公布しました。当時は、土地の所有は認められず、班田収授制によって貸与された土地からの何割かを「租」として納める制度でした。

1616年 徳川家康死去…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、「江戸幕府」を開いてさらに磐石のものとした徳川家康が亡くなりました。

1895年 下関条約調印…1894年7月に始まった日清戦争は、日本の勝利に終わりましたが、この日山口県下関市で、日清戦争の講和条約のための下関条約が調印されました。

投稿日:2013年04月17日(水) 05:06

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)