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「会場芸術」 の川端龍子

今日4月10日は、洋画から日本画に転向し、ダンナミックな「会場芸術」とよばれる大作を多く描いた日本画家の川端龍子(かわばた りゅうし)が、1966年に亡くなった日です。

1885年、和歌山市の呉服商の子として生まれた川端龍子(本名・昇太郎)は、実家の没落によって、10歳のころに家族とともに東京へ移り住み、府立1中に進学、やがて1中から分れた3中に移籍しました。この中学在学中の1903年、読売新聞社の一般募集した絵画展に、さし絵2点が入選しました。これがきっかけとなって、白馬会洋画研究所に入り、本格的に油絵を学びました。

1907年の第1回文部省美術展覧会(文展)に『隣の人』が入選をはたすと、太平洋画会研究所に所属しながら、新聞や雑誌にさし絵を描いたりしました。しかし、洋画にいきづまりを感じるようになり、1913年に念願だったアメリカに渡り、ボストン美術館で鎌倉期の名作「平治物語絵巻」を見て感動、日本画に転向することを決めて、半年後に帰国しました。

さし絵を描いて生計をたてながら、独学で日本画の制作に打ちこみ、1915年「院展」に『狐の途』が日本画として初入選をはたしました。翌年の同展に『霊泉由来』を発表すると、伝統によらない新鮮さと洋画的な感覚が高く評価され、樗牛賞を受賞しました。1917年には巨匠横山大観の率いる「日本美術院」の同人となり、1921年に発表した、日本神話の英雄ヤマトタケルを描いた『火生』は、小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」が当時の日本画壇でもてはやされたのに対し、龍子の激しい色使いと筆致は、画壇に物議をかもしだしました。

その後も、『土』『使徒所行讃』など、床の間で鑑賞するような小さな芸術を脱皮する力強い問題作を発表し、1929年には「青龍社」を旗揚げして大衆性をもった豪放な「会場芸術」としての日本画を主張しました。そして、2×8mという大画面に、鮮やかな海の青と激しくぶつかり合う白い波のコントラストが目をひく『鳴門』や、暗闇の中に名もない植物が炎のよう浮かびあがる『草炎』(1930年)など、常識をくつがえすダイナミックな作品により、画風をさらに広げ、画壇の異色的存在となっていきました。

戦後も『天橋立図』『金閣炎上』などのスケールの大きな作品を描いたほか、1950年には妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始めました。6年がかりで全札所を回った淡彩のスケッチは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版され、今もロングセラーとなって、巡礼者に親しまれています。1959年には文化勲章受章、没年の1966年には、アトリエとなっていた場所に「龍子記念館」が設立され、1990年からは青龍社から大田区に寄贈されて、いっぱん公開されています。

なお、龍子の作品ほかは、「オンライン画像検索」で見ることができます。


「4月10日にあった主なできごと」

1946年 初の女性議員…この日、日本ではじめて女性が参加した衆議院議員選挙が行なわれました。この選挙の女性投票率は67パーセントをこえ、女性立候補者82名のうち39名が当選をはたしました。

1952年 「君の名は」放送開始…NHKは、連続ラジオ放送劇「君の名は」(菊田一夫作)を、この日からスタートさせました。放送開始から爆発的な人気を呼び、銭湯の女湯がガラ空きになるほどの社会現象をひきおこしました。

1959年 皇太子の結婚…皇太子明仁親王(現在の天皇)がこの日結婚。皇太子妃となる正田美智子さんが、民間から初の妃ということで慶祝熱が高まり、ご成婚パレードには美智子妃を一目みようと沿道に53万もの人がつめかけるなど、日本じゅうが「ミッチーブーム」にわきたちました。

投稿日:2013年04月10日(水) 05:40

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)