今日4月9日は、戦後日本ジャーナリズムに新風を吹きこんだ児童文学者・編集者・評論家の吉野源三郎(よしの げんざぶろう)が、1899年に生まれた日です。
株式取引所仲買人の子として東京に生まれた吉野源三郎は、1925年に東京帝国大学哲学科を卒業後、陸軍に入隊し2年後に除隊すると、東大図書館に就職しました。そのころから政治に関心を持ち、社会主義系団体の事務所に出入りするようになりました。ふとしたことで、1931年に治安維持法事件で逮捕されことから、軍国主義への不信感がめばえました。
1935年、作家山本有三に人柄を買われて、有三が当時編さんしていた子ども向け教養書シリーズ「日本少国民文庫」(新潮社刊) の編集主任に就任しました。次第に戦争へと向かう暗い時代に、ヒューマニズムを子どもたちに伝えなければならないという有三の強い熱意と、吉野を中心に石井桃子らが編集にたずさわったこの文庫シリーズは、今もなお高く評価されています。1937年に明治大学講師となると、その年に吉野は、『君たちはどう生きるか』を本文庫のために執筆しました。
この本は「コペル君とおじさん」という表題がついていて、中学生のコペル君が経験したり考えたりしたことに、おじさんが感想をのべ、さらにコペル君の考えを発展させていくという構成になっています。コペル君というのはあだ名で、ある日コペル君がデパートの屋上に立って、あたりを見回しているうち、人間も「分子」ではないかと思いついたことをおじさんに話すと、おじさんは「ものの見方について」という文を書いて、その考えは、「地動説のコペルニクスふうな考え」とほめてくれたことがきっかけでした。「ナポレオンと4人の少年」の章では、おじさんは「英雄とか偉人といわれている人々の中で、ほんとうに尊敬できるのは、人類の進歩に役立った人だけだ」とのべ、ナポレオンの生涯と比較しながら、リンカーンの伝記を読むことを勧めています。
この本が出版された年は日中戦争が本格化した時期で、ナポレオンに名を借りて、独裁的英雄を批判することは、たいへん勇気のあることだったにちがいありません。
吉野は編集者をかねながら、1939年には明大教授に就任、戦時中も軍国主義に抵抗しながら、一貫して独自のヒューマニズム論を展開しました。敗戦後の1945年には、岩波書店で刊行する雑誌「世界」の初代編集長に就き、反戦、平和の姿勢で論陣を張りました。そして、新憲法の精神を国民に定着させるために、各地で講演会を催したり、「世界」を憲法問題の発表の場とするなど、戦後の日本ジャーナリズムに新風を吹きこみました。「岩波少年文庫」の創設にも尽力し、1950年には同社の常務取締役となって、同社の編集全体の責任者としても活躍しました。
著書には、他に『エイブ・リンカーン』『人間の尊さを守ろう』『人類の進歩につくした人』『ぼくも人間、きみも人間』や、『あらしのまえ』などの名作の翻訳書も多く残し、1981年、82歳で亡くなりました。
「4月9日にあった主なできごと」
752年 奈良大仏開眼…聖武天皇の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれました。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。
1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだリンカーンが大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1862年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。
1976年 武者小路実篤死去…『友情』『愛と死』『真理先生』などの小説、人生賛美あふれる人生論を著した武者小路実篤が亡くなりました。