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暗殺された吉田東洋

今日4月8日は、幕末期に、土佐藩主山内容堂(豊信)の片腕となって、強力な藩政改革を推し進めた吉田東洋(よしだ とうよう)が、1862年に亡くなった日です。

1816年、土佐藩上士の子として高知城下に生まれた吉田正秋(東洋=号)は、1841年父の死去により家督を相続しました。1842年に船奉行として出仕すると、まもなく郡奉行に転じて、民政を担当しました。藩主山内豊熙(とよてる)の推進する藩政改革に参与し、飢饉に備えるための「済農倉」設立を進言しましたが、病により無役となりました。しかしその間も、人事や法令改正、海防などの意見書を提出したことで、1847年には再出仕し、1848年に妻の弟が病死すると、その遺児である後藤象二郎の父代わりになって、養育しました。

ペリーの来航により、藩内外の激動期をむかえると、1853年に新藩主となった山内容堂に抜てきされ、「参政」として、強力に藩政改革を主導しました。1854年、参勤交代に伴って江戸へ出て藤田東湖らと交友しましたが、酒宴に旗本を殴打するという事件を引き起こし、帰郷の上、謹慎処分を受けてしまいました。そのため、高知郊外に私塾「少林塾」を開き、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎ら若い藩士に、洋学などの新知識を教えました。

1857年末に、許されて参政に復帰した吉田は、法律書『海南政典』を定め、門閥政治打破、「物品税」を課して流通機構統制の強化、洋式兵器の採用による軍制改革、さらに開国貿易など、富国強兵を目的とした大改革を遂行しました。しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や、武市半平太ら尊皇攘夷を唱える「土佐勤王党」との政治的対立を生じさせる結果となり、土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺されてしまいました。

しかし、東洋の政策はその後、後藤象二郎らに受け継がれ、幕末の土佐藩の基本方針となりました。そして、坂本龍馬から聞いた「船中八策」他を、後藤が自らの考えとして容堂に提案し、容堂が15代将軍徳川慶喜に「大政奉還」をうながしたことは、よく知られています。


「4月8日の行事」

花まつり (シャカの誕生日)…今日4月8日は、今から二千数百年も昔、仏教を開いたシャカ(釈迦)が誕生した日と伝えられ、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)などといわれます。また、花の咲きにおう春に行なわれたことから「花まつり」とよばれて、日本各地のお寺では、花で飾った小さなお堂の中に、釈迦の誕生仏を安置して、お参りにきた人は甘茶をそそいでお祈りをする、はなやかな仏教の行事になっています。


「4月8日にあった主なできごと」

1147年 源頼朝誕生…平安時代末期に源義朝の3男に生まれ、平治の乱で敗れて伊豆へ流されるも平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定して、はじめて武士による政権となる「鎌倉幕府」を開いた源頼朝が生まれました。

1350年 吉田兼好死去…清少納言の「枕草子」と並び、随筆文学の傑作「徒然草」を著わした僧侶で歌人の吉田兼好が亡くなりました。

1820年 ミロのビーナス発見…ギリシアのミロス島で、ひとりの農夫が両腕の欠けた美しい大理石の女神を発見。島の名にちなんで「ミロのビーナス」と命名されました。古代ギリシア時代の一級彫刻作品として、パリのルーブル美術館が所蔵しています。
 
1973年 ピカソ死去…スペインが生んだ世界的な画家・版画家・彫刻家・陶芸家のピカソが、この日92歳で亡くなりました。

投稿日:2013年04月08日(月) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)