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「新古典派の大作曲家」 ブラームス

今日4月3日は、バッハ、ベートーベンとともに、ドイツ音楽の「三大B」と讃えられる作曲家のブラームスが、1897年に亡くなった日です。

1833年北ドイツのハンブルクに、コントラバス奏者の子として生まれたヨハネス・ブラームスは、幼いころから父にバイオリンやチェロの手ほどきをうけました。7歳ころからピアノをエドバルド・マルクスゼン門下のコッセルについて本格的に学ぶうちにめきめき上達、10歳で師はマルクゼンに移り、13歳のときには町のレストランやダンスホールでピアノ演奏することで家計を支えるほどでした。

1848年には、15歳で初のピアノ独奏会を開くと評判がよく、翌年も開いて再び好評を博しました。これ以後は、ピアニストより作曲家としての道をすすむ決心を固めます。しかし、納得できるような作品が作れないことで、作品を捨ててしまったため、19歳以前の作品は記録のみで、現存しません。

1853年にハンガリーのバイオリン奏者レメーニとドイツ各地を演奏旅行にでかけました。この旅行でレメーニから、ハンガリー民謡やジプシー(ロマ)音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼしました。この旅行中にワイマールでリストを訪問したり、ドレスデンでシューマンに会って作品を見てもらいました。シューマンはブラームスの才能を高く評価し、音楽評論誌に「新しい道」と題して、ブラームスの才能を讃えた論文を掲載したことで、大きな自信を得るとともに、世に出るきっかけをつかみました。二人の友情は、1856年のシューマンの死後もつづき、シューマンの妻クララとは、生涯に渡って親しく交流を続けることになりました。

1862年にウィーンに出たブラームスは、作曲に集中し、1866年に完成した合唱曲『ドイツ鎮魂歌』は、シューマンに対する哀悼の気持が作曲の動機といわれています。この作品に対し、ハンスクリットという音楽評論家は、「バッハの『ミサ曲』、ベートーベンの『荘厳ミサ曲』以来の宗教曲の大曲で、この曲に勝るものはない」と絶賛するなど、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となりました。

1876年には、19年の歳月をかけた『交響曲第1番』を完成させました。この作品はのちに指揮者のビューローが「ベートーベンの10番目の交響曲」と呼んだほど完成度の高い作品です。第1番から間もない1877年には「第2番」、1883年に「第3番」、1885年に交響曲最後となる第4番が、比較的短い期間に書き上げられました。この『交響曲第4番』も傑作として知られています。1878年4月に初めてイタリア旅行した翌年の元日、自ら指揮をとった『バイオリン協奏曲(コンチェルト)』が発表されました。この曲は今日、ベートーベンとメンデルスゾーンと並び「3大協奏曲」の一つとされています。

ブラームスの音楽は、バッハやベートーベンら「古典派」の作り上げた形式を守りながら、ロマン主義をとりいれたことで「新古典派」といわれています。作品は、歌劇を除くと、ほとんどのジャンルにおよび、上記以外に、2つの「ピアノ協奏曲」、『ハイドンの主題による変奏曲』などの管弦楽曲、『大学祝典序曲』、『ワルツ集』、『子守唄』、21種類の『ハンガリア舞曲』などが知られています。特に『ハンガリア舞曲第5番』は、今も名曲としてたくさんの人に親しまれつづけています。

1890年代に入ると創作力が衰え、1896年にクララが亡くなると健康が悪化し、翌年63年の独身の生涯を閉じました。


「4月3日にあった主なできごと」

604年 十七条の憲法…聖徳太子は、仏教や儒教に基づくきまりや道徳を示した「十七条の憲法」を制定しました。

1673年 隠元死去…江戸時代の初期に禅宗の流れをくむ「日本黄檗宗」を開き、インゲン豆を日本に伝えたとされる中国の僧・隠元が亡くなりました。

1682年 ムリーリョ死去…『無原罪の宿り』 など甘美な聖母像や、愛らしい子どもの絵で知られる、スペインバロック絵画の黄金期を築いた画家ムリーリョが亡くなりました。

投稿日:2013年04月03日(水) 05:17

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)