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「ライオン宰相」 浜口雄幸

今日4月1日は、大蔵官僚から政治家に転じ、大蔵大臣、内務大臣をへて第27代総理大臣となってロンドン軍縮条約を成立させたものの、テロに屈した浜口雄幸(はまぐち おさち)が、1870年に生まれた日です。

土佐国五台山村(今の高知市)の林業を営む水口家の3男に生まれた雄幸は、1889年19歳のとき富豪浜口家の娘と結婚し浜田家を継ぎました。第三高等中学を経て、1895年に東京帝国大学法科を卒業して大蔵省に入りました。松山、熊本の税務管理局長、東京税務監督局長、専売局長官を歴任、その間に満鉄総裁の後藤新平と知り合い、1912年の第3次桂内閣の後藤逓信大臣のもとで逓信次官を務めましたが、内閣が倒れると、浜口は、17年にわたる官僚生活に別れつげました。

後藤のすすめで、桂太郎が結成した立憲同志会に入党した浜口は、1914年に成立した第2次大隈重信内閣の大蔵次官となり、翌1915年に高知市から立候補して衆議院議員に当選し、政界での本格的活動を開始しました。政党に対して情熱的に貢献し、落選しても政党の事務員の記章をつけて議会へ通い続けている姿を見て、加藤高明総裁から賞賛され、1924年に、加藤高明の護憲3派内閣が成立すると、大蔵大臣に抜てきされて緊縮財政を推し進め、1926年の若槻礼次郎内閣では内務大臣をつとめました。

1927年6月に立憲民政党の初代総裁となると、1929年張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職した田中義一内閣の後、元老西園寺公望が浜口を後継総理として天皇に推薦したことから、内閣総理大臣に就任しました。弁舌さわやか、謹厳実直、強烈な存在感を示したことで、その風貌から「ライオン宰相」と大衆に親しまれました。組閣では、財界からの信任の厚い井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用し、金解禁(金の輸出禁止をやめて金本位制にもどす)や緊縮政策を断行、外務大臣に幣原喜十郎をおいて協調外交の実現に努力して、野党・立憲政友会の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

しかし、おりからの世界恐慌が要因となって、日本経済はいっそう深刻さを増していました。また、イギリスやアメリカとの協調外交を唱えたことは、軍部や右翼から非難され、海軍からも「軍縮条約は統帥権干犯」と問題視されました。

1930年11月14日浜口は、岡山で行われる陸軍の演習の視察と、昭和天皇の行幸への付き添いと自身の国帰りも兼ね、東京駅を訪れたところ、右翼愛国社社員に至近距離から銃撃されました。すぐに応急処置が施され、腸の3割を摘出する大手術を受けて一命は取りとめられましたが、この傷がもとで、翌1931年8月に亡くなってしまいました。

浜口内閣は、1924年の加藤内閣から1932年の5.15事件で犬養内閣が倒れるまで8年間続いた「戦前政党政治」のうち、もっとも本領を発揮した内閣と、その手腕は高く評価されています。


「4月1日にあった主なできごと」

1173年 親鸞死去…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然に学び、その教えを発展させて「浄土真宗」を開いた親鸞が生まれました。

1815年 ビスマルク誕生…プロイセン王の右腕としてドイツ統一をめざして鉄血政策を推進し、1871年にプロイセン王をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一をなしとげたビスマルクが生まれました。

1938年 国家総動員法の公布…1937年7月、北京郊外の盧溝橋での日中の衝突事件に端を発した日華事変は、急速に激化の一途をたどりました。広大な中国の山野で活動する大軍の需要を満たすため、この日国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる権限を規定した「国家総動員法」を公布しました。

投稿日:2013年04月01日(月) 05:02

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)