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「軍神」 広瀬武夫

今日3月27日は、明治時代の海軍軍人で、日露戦争の際、果敢な戦いと部下を思うあまりに戦死したことで「軍神」と神格化された広瀬武夫(ひろせ たけお)が、1904年に亡くなった日です。

1868年、豊後国竹田(現・大分県竹田市)に旧藩士の子として生まれた広瀬武夫は、幼いころに母親が亡くなったため祖母に育てられました。西南戦争の際、竹田の自宅が焼失したため一家で飛騨高山へ転居しました。1885年に海軍兵学校入校し、卒業後は軍艦「比叡」に乗船しました。やがて測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事しました。

1894年の日清戦争には海軍軍人として従軍し、翌年大尉に昇進。1897年にはロシアへの留学を命じられ、ロシアの社交界に接触して貴族社会と交わるようになりました。その後武官としてロシアに駐在し、1900年には少佐に昇進。その間、イギリス、ドイツ、フランスを視察して1902年に帰国しました。

広瀬が有名になるのは、1904年に始まった日露戦争においてでした。同年2月8日、日本海軍は旅順湾外にあったロシア艦隊に夜襲をかけたことで、戦争の火ぶたが落とされると、この攻撃に対し、ロシア艦隊は、機雷を敷設して旅順港にこもりました。日本海軍は、狭い水路に船を沈めて、艦隊を湾内に閉じ込める作戦(閉塞作戦)に打って出ましたが、ロシア軍の砲撃にさらされて失敗してしまいました。

第2回目の閉塞作戦が、福井丸を指揮した広瀬少佐でした。しかし、ロシア艦隊の猛火をあびながら湾内に進入するものの、魚雷の直撃を受けて自爆、沈没してしまいました。自爆後に乗員を点呼したところ、上等兵の杉野孫七がいないことに気づいた広瀬は、杉野を助けるため一人沈んでいく福井丸に戻り、船内を3度も捜索したものの姿は見つからず、やむなく救命ボートに乗り移ろうとした直後、ロシア軍の集中砲火の直撃を受けて戦死してしまいました。(死去後すぐに中佐に昇進)

5日後に、遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるのを発見され、ロシア軍によって手厚く埋葬されました。こうした死にかたは、軍人の鑑とされ、のちに「軍神」といいはやされました。1935年には、出身地の大分県竹田に広瀬を祀る広瀬神社が建てられています。また、下の文部省唱歌『広瀬中佐』(大和田建樹作詞・納所弁太郎作曲)は、長い間親しまれました。

1. 轟く砲音(つつおと)飛来る弾丸、荒波洗う デッキの上に、
  闇を貫く中佐の叫び 「杉野はいずこ 杉野は居ずや」

2. 船内くまなく 尋ぬる三度  呼べど答えず さがせど見えず、
  船は次第に 波間に沈み、敵弾いよいよ あたりに繁し

3. 今はとボートに移れる中佐、飛来る弾丸に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、軍神広瀬と その名残れど

この歌は、私の小学生時代にも「手遊び歌」や「手まり歌」として女性たちに親しまれていたことを、今もはっきり記憶しています。

なお、ロシア駐在中の広瀬は、ロシア海軍省機雷敷設の専門家アナトリー・コワリスキー大佐と知り合い、その娘・アリアズナと交際したことが知られています。司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』にも、広瀬武夫は準主役的に描かれ、二人の交際は、作品にロマンチックな色彩を与えています。武夫の戦死を聞いた彼女は、長い間喪に服したといわれています。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、『奥の細道』は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1845年 レントゲン誕生…ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見したレントゲンが生まれました。

1933年 「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめました。

投稿日:2013年03月27日(水) 05:26

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)