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「悲運の鬼才」 青木繁

今日3月25日は、『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』など、近代日本美術史上の傑作といわれる作品を生み出しながら、放浪の末に若くして病死した洋画家の青木繁(あおき しげる)が、1911年に亡くなった日です。

1882年福岡県久留米市に、旧有馬藩士の長男として生まれた青木繁は、高等小学校のときから絵を描くことに興味をおぼえ、級友だった坂本繁二郎(終生の親友でライバル)ととともに、近くに住む画家の手ほどきを受けました。坂本とは久留米中学時代も競い合いましたが、父親らが画家を志す繁を理解しないため、1899年満16歳の時に学業を放棄して、島崎藤村の『若菜集』を1冊たずさえて単身上京、画塾・不同舎に入って主宰者の小山正太郎に師事しました。中学時代から、文学、詩、短歌や俳句、哲学などに親しんできた青木にとって、中央の空気をふれることで当時のロマン的な文芸界の潮流をみずみずしい感覚で吸収していきました。

1900年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝や藤島武二の指導を受け、特に黒田から印象派風の自然描写を身につけ、やがて神秘的な独自の情感をこめた柔らかさを開拓していきました。『古事記』や『日本書紀』、古代インドの伝説などを題材に、自在に描いた一連の作品は、1903年秋の第8回白馬会に出品されると、この作品群は「第1回白馬賞」を受賞しました。師の黒田でさえその新傾向に感嘆し、魔術師的才能は、詩人の蒲原有明をとりこにしました。

そして、1904年に代表作『海の幸』(下の絵)が、秋の白馬会に出品されると、話題を独占しました。同年の7月半ばから9月はじめまで、青木は坂本繁二郎や恋人福田たねら4人で房総半島の先端にある布良(めら)海岸の漁村に滞在しました。太平洋の荒波にめげず、たくましく生きる漁民の生き方に心ひかれ、坂本や恋人(中央右・正面を見る美女)もモデルに描きました。このころが、青木にとって、もっとも充実した時期でもありました。

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『海の幸』は、画壇や評論家たちの絶賛にささえられて、青木の評価をはなばなしいものにしましたが、それは絵の上だけのもので、画学生としての生活のたしにはなりませんでした。一部に青木の才能をそねむ者もあらわれ、強烈な個性で放つ言動で、敵対者をよぶようになってきました。その後の父の事業の失敗、家族との不和、たねの妊娠と出産など、次々に生活を圧迫するできごとがおとずれました。そんな中でも、1907年、久しぶりの野心的『わだつみのいろこの宮』を完成させ、勧業博覧会に出品しました。この力作は、今では『海の幸』とともに、国の重要文化財に指定されていますが、当時の博覧会美術部の評価は低く、苦心にもかかわらず一銭の金にもならず、この作品に賭けてきた青木の精神的な大打撃となってしまいました。

さらに、父の死と多額の負債による家族の離散、たねと子との別れ、放浪のすえの肺結核の悪化が追い打ちをかけ、短い生涯を終えてしまいました。

なお、青木の作品他は、「オンライン画像検索」で見ることが出来ます。


「3月25日にあった主なできごと」

1499年 蓮如死去…親鸞が開いた浄土真宗の教えを、わかりやすい言葉で民衆の心をとらえ、真宗を再興させて「中興の祖」といわれる蓮如が、亡くなりました。

1872年 樋口一葉誕生…「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」などの名作を残し、わずか24歳で亡くなった作家 樋口一葉が生まれました。

1878年 初の電灯…この日中央電信局が開設され、その祝賀会でわが国初の電灯としてアーク灯が15分ほど灯りました。ただし、一般の人が電灯を見たのは4年半後に銀座通りにアーク灯がついてからでした。一般家庭で電灯がつくようになったのは1887年11月のことです。

1957年 EECの結成…EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、この日、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6か国の代表がローマに集まって、結成のための「ローマ条約」を結びました。1958年1月からEECは正式発足しましたが、その経済面での発展はめざましいもので、ヨーロッパ経済の中心となるばかりでなく、EC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)となっていきました。

投稿日:2013年03月25日(月) 06:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)