児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『シェエラザード』 のリムスキー

『シェエラザード』 のリムスキー

今日3月18日は、ロシア国民学派五人組のひとりで、交響組曲『シェエラザード』『スペイン奇想曲』など、管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残したロシアの作曲家リムスキー・コルサコフが、1844年に生まれた日です。

ロシア北西部ノブゴロドに、軍人貴族の家庭に生まれたリムスキー・コルサコフは、幼少のころから楽才を示しましたが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学しました。卒業後に海軍士官となって、艦隊による海外遠征を体験しました。1861年17歳のとき、国民学派のリーダー格のバラキレフと出あい、航海演習のない時に作曲の指導を受け、後の「五人組」となるキュイ、ボロディン、ムソルグスキーとも交友するようになりました。

1871年に、ペテルブルク音楽院の要請を受けて作曲と管弦楽法の教授となり、2年後に軍を退き、教鞭をとりながら海軍軍楽隊の指揮をつとめるなど、ロシア音楽のアカデニズムの確立に貢献しました。

代表作のひとつ『シェエラザード』は、1888年44歳のときに完成しました。青年期に十数年間わたって遠洋航海したことで、『船乗りシンドバッドの冒険』に興味を感じたことがこの作品の背景にあったのでしょう。この冒険話は、『アラビアンナイト』(千一夜物語)にある話のひとつです。よく知られているように『アラビアンナイト』は、シャリアールという残酷な王様が、結婚した夜に王様に興味深い話ができない花嫁を次々に殺してしまうことからはじまります。そして、聡明な美女シェエラードがシャリアールの妻となりますが、毎夜彼女は王様におもしろい話を聞かせることで殺されるのをのがれ、それを千一夜も続けたことで、王の残酷な心をとかしてしまうという物語です。

リムスキー・コルサコフは、一連のシンドバッドの冒険話のうち、4つの物語をとりあげ、4楽章の組曲をこしらえました。第1楽章「海とシンドバッドの船」、第2楽章「カレンダー王子の船」、第3楽章「若い王子と王女」、第4楽章「バクダットの祭り。海。難破。終曲」となっていて、各楽章のはじめに「慈悲深い王さま、それでは昨晩のお話の続きをお話します」と独奏バイオリンが奏で、締めくくりも「夜があけましたので、お話はまた」と奏でますが、その美しいメロディや、全体に流れる官能的な雰囲気は、多くの人を魅了してきました。この作品の前年に発表された『スペイン奇想曲』も、エキゾチックあふれる名曲として定評があります。

『ブスコフの娘』『雪娘』などのオペラ、交響曲、室内楽、歌曲ほか、幅広い分野でも優れた作品を遺したほか、5人組の先輩であるボロディンの『イーグル公』や、ムソルグスキーの『ホバンシチナ』など、独自の管弦楽法による補修により、いっそう磨きがかけられました。また、1908年に亡くなるまで、ストラビンスキー、グラズノフ、プロコフィエフら、たくさんの弟子を育てたことでも、大きな役割をはたしました。


「3月18日にあった主なできごと」

724年 柿本人麻呂死去…飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂は生没年不詳ですが、亡くなったとされる日のひとつです。

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

投稿日:2013年03月18日(月) 09:46

 <  前の記事 しめこみ  |  トップページ  |  次の記事 「日本洋画界の重鎮」 藤島武二  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3012

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)