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悲運の武将・武田勝頼

今日3月11日は、甲斐(山梨)武田家第20代当主として、信玄の領国拡大方針を継承するものの「長篠の戦い」に敗れたことがきっかけとなって、武田家を滅亡させた武田勝頼(たけだ かつより)が、1582年に亡くなった日です。

武田信玄と同盟関係にある諏訪頼重の娘の子(信玄の4男)として、1546年に甲斐国に生まれた勝頼は、成長すると諏訪家を継ぎ、高遠(現・伊那市)城主となりました。信玄の命にしたがって功績をあげるうち、異母兄で武田家後継者とされていた義信の家臣らが、信玄暗殺の謀議に加わったことで処罰され、次兄竜宝は生まれつき盲目のために出家、三兄の信之は幼くして亡くなったことから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められました。
 
当時、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたことで、信玄の眼もまた京をめざすようになります。北条家との激闘の末に駿河を奪取した後、武田軍は、徳川家康の居城である浜松城近くの三方ヶ原で激突(1571年)、勝頼も部隊を率いてこの戦いに勝利しました。この戦いは家康にとって、唯一の敗戦といわれています。

しかし、三方ヶ原の戦いの直後、京にのぼる途中で信玄は急死してしまいました。「後継は勝頼の子の信勝であり、勝頼は信勝が成人するまで後見すること。3年間は自分の死を秘すこと」の遺言をのこしました。甲斐に引き返した勝頼でしたが、この不自然な撤退は信玄の死を各地の武将に推測させたことで、信長や家康は、これを好機ととらえ策略の手を伸ばすいっぽう、信玄のライバルだった上杉謙信は、「人の不幸に付け込むのは義に反する」と退けています。

勝頼は、まだ正式な当主ではなかったうえ、3年間は信玄は生きているように遺言されたために、家中をまとめるのに時間がかかりました。やがて反撃に出た勝頼は、1574年に美濃(岐阜県)の明智城を攻略。続いて、信玄も攻略できなかった遠江(静岡県)の高天神(たかてんじん)城を攻略したことで、勝頼の名声は一気に高まりました。この落城に危機感を覚えた家康は、信長に援軍を要請しました。こうして1575年、武田軍は、織田・徳川連合軍と美濃・長篠で激突します。これが従来の戦争スタイルを変えたことで名高い「長篠の戦い」です。

信玄が遺した、当時最強といわれた武田の騎馬隊を恐れた信長は、堺で3000丁の鉄砲を手に入れていました。そして、陣地の前に馬が越えることのできない高い柵(馬防柵)を築きました。さらに、3000人の鉄砲隊を3組3列に並べ、交代させながら、休みなく鉄砲を打ち続けるという作戦を考え出しました。5月21日、午前6時、武田軍15000人、連合軍38000人が相対しました。この時期は梅雨の季節だったため、鉄砲の使用に適していませんでした。いっぽう地面がぬかるんでおり、騎馬隊にとっても有利な状況ではなかったため戦いは8時間の長時間に及びました。しかし、武田軍は全滅に近いかたちで敗れてしまいました。

この戦いによって、武田家が失ったものは大きなものでした。物的な損失はもちろん、武田家を信玄時代から支えた多くの重臣、そして何よりも、武田家が誇ってきた無敗伝説の終えんでした。勝頼は、自分の妹を上杉謙信の養子である景勝と結婚させるなど、勢力の挽回をはかりましたが、家臣のなかには信長や家康につく者が出たり、衰えた勢いは、なかなか取り戻すことかできません。

好機と見た徳川家康は、高天神城の奪回に取りかかりました。勝頼は援軍を送りたかったものの、1581年、一部の生還者を除くほぼ全員の戦死という悲惨な結末を迎えました。7年前に勝頼に名声をもたらした城は、勝頼と武田家の威信を致命的に失墜させてしまいました。そして、1582年3月、織田・徳川・北条連合軍は武田家に侵攻すると、勝頼は完成したばかりの新府城に火を放ってのがれましたが、小山田信茂の裏切りにあい、天目山のふもとで織田軍と衝突、勝頼は自害し、武田家は滅亡しました。信玄死後、わずか10年目のことでした。


「3月11日にあった主なできごと」

1444年 ボッティチェリ誕生…イタリア・ルネッサンス期の画家で『ビーナスの誕生』や『春』を描いた、ボッティチェリが生まれました。

1955年 フレミング死去…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが亡くなりました。

投稿日:2013年03月11日(月) 06:14

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)