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産児制限運動と山本宣治

今日3月5日は、生物学者として性教育の啓発と産児制限を提唱し、政治家として治安維持法改悪反対を訴えた山本宣治(やまもと せんじ)が、1929年に暗殺された日です。

1889年、京都新京極の商家の1人息子として生まれた山本宣治(「山宣」の愛称で親しまれた) は、病弱だったために神戸第1中学を中退し、両親が建ててくれた宇治の別荘(のちに料亭)で花づくりをしながらすごしました。1906年、園芸家を志して大隈重信邸へ住み込み、1907年からカナダのバンクーバーへ5年間、皿洗いや鮭捕漁夫などの仕事をしながら、園芸の勉強をしました。この間に、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』や、ダーウィンの『種の起源』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深め、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につけました。

1911年に帰国すると、同志社予科、第三高等学校を経て、東京帝国大学理学部に入学して「動物学」を学び、1920年には京都帝国大学大学院へ進学して「動物学」の研究を深めると、同志社予科、やがて京都帝国大学の講師となって、人生のための科学「人生生物学」を講義しました。当時の日本では、貧しい労働者たちの家庭には子どもの数が多く、子どもたちを十分に養えない状態にありました。そこで山宣は、性教育の啓発と性科学の普及運動に関わり、産児制限運動 (山宣の言葉では「産児調節運動」)を主唱していきました。1922年アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日の際には、通訳を務めています。

こうした活動のなかで、左翼系の社会運動との関わりを強め、1924年には、京都労働学校長となって労働者教育にたずさわり、『産児調節評論』(のち『性と社会』に改題)を著わし、1927年には日本共産党系の労働農民党(労農党)の京都府連合会委員長となりました。

1928年の第1回普通選挙に労農党から立候補して当選しました。ところが、田中義一内閣は、全国千数百人もの労働農民党員を捕え、党の解散を命じたばかりでなく、共産主義者は死刑・無期刑にするという治安維持法の改正をくわだてました。1929年3月5日、帝国議会で治安維持法改悪反対を訴える予定でしたが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決されてしまいました。さらにその日の夜、旅館を訪れた右翼のテロリストに刺殺されてしまいました。議会で訴える予定原稿には「実に今や階級的立場を守るものはただ一人、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……」とありました。

なお、山宣の生涯を描いた映画に『武器なき斗い』(山本薩夫監督)があります。西口克己の評伝『山宣』を映画化したもので、1960年に公開されました。


「3月5日にあった主なできごと」

1932年 団琢磨死去…三井・三池炭鉱を経営し、三井財閥の総帥となって、大正・昭和初期の日本実業界のトップに立った団琢磨が、暗殺されました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥となったスターリンが亡くなりました。

投稿日:2013年03月05日(火) 05:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)