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名将ワレンシュタイン

今日2月25日は、400年ほど前ドイツとフランス間で戦われた三十年戦争期の「神聖ローマ帝国」(ドイツ)皇帝軍総司令官として活躍したワレンシュタインが、1634年に暗殺された日です。

1583年、ボヘミア(チェコ西部)ドイツ系プロテスタントの小貴族の家に生まれたアレブレヒト・ワレンシュタインは、カトリックに改宗してイタリアのパドバ大学に遊学後、オーストリアのハプスブルク家の傭兵として仕えました。

1618年にボヘミアのプロテスタントが反乱をおこすと、ワレンシュタインは神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方して、1620年に反乱軍を鎮圧しました。これは、ドイツの人口が3分の1に減ったといわれる「三十年戦争」(1618−48年)のはじまりで、主としてフランスのブルボン家と、神聖ローマ皇帝・オーストリアのハプスブルク家の対立と、カトリックとプロテスタントの対立が複雑にからみあって長期化した凄惨な戦争でした。

ワレンシュタインは皇帝の許しをえて、プロテスタントの領土を没収したり売買することで、ボヘミアでも有数の大貴族にのし上がりました。1620年から1623年にかけては、軍資金不足の皇帝に資金融資や私兵を提供したことで、北ボヘミアに広大な領土を獲得すると、フェルディナント2世側近の娘と結婚して宮廷にも足がかりを築きました。

1625年、皇帝軍総司令官に任命されたワレンシュタインは、自分の資金を使って集めた3万の兵を率いて北ドイツへ出兵、プロテスタントを擁護するためにドイツに侵入してきたデンマーク王クリスチャン4世軍と戦い、「デッサウの戦い」他で撃破、この功績によりさらに領土を広げました。1628年にワレンシュタインは、ドイツへ再上陸してきたクリスチャン4世を「ボルガストの戦い」で破り、翌1629年のリューベックの和約で、デンマークをドイツから締め出すことに成功しました。これにより、表だって反抗するプロテスタントがなくなり、フェルディナント2世とワレンシュタインの権力は絶頂期に達しました。

しかし、免奪税などの税制度を勝手にこしらえて占領地から取り立てたり略奪行為などを、ブランデンブルク選帝侯ら旧来の帝国諸侯から、フェルディナント2世へ直訴が繰り返され、ボヘミアの小貴族に過ぎないワレンシュタインが、一気に皇帝軍総司令官に成り上がったことも反感を買いはじめていました。

1629年フェルディナント2世は、プロテスタントの勢力削減や諸侯の軍事力を制限して、ハプスブルク家の絶対君主制確立を企て「復旧令」を発布しました。ところが、プロテスタント・カトリック双方から反対の声が上がり、ブランデンブルク選帝侯ら選帝侯たちは「復旧令」の撤回と「ワレンシュタインの罷免」を要求、フェルディナント2世は窮地に立たされました。

そして1630年、ワレンシュタインはフェルディナント2世に総司令官を罷免されてしまいました。同年、スウェーデン王グスタフ・アドルフがプロテスタント諸侯とフランスの支援を受けて北ドイツに上陸、後任の司令官が苦戦を強いられたことで、1632年にワレンシュタインは、再び起用され、輝かしい成果をあげました。しかし、かつてのように自らきたえあげた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、独自に講和を結ぼうとしたことで反逆の疑いをかけられ、ワレンシュタインをねたんだ皇帝軍の将校に暗殺されてしまったのでした。

なお、ドイツの作家シラーは、代表作となる戯曲『ワレンシュタイン』を著わしました。ワレンシュタインが皇帝への反逆を決め、暗殺されるまでの三日間を通して、英雄の野心と没落を描いた歴史劇の傑作とされています。


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人ルノアールが生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が亡くなりました。

投稿日:2013年02月25日(月) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)