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「信念の出版人」 下中弥三郎

今日2月21日は、労働運動や農民運動の指導者で、「百科事典」の平凡社を創業した下中弥三郎(しもなか やさぶろう)が、1961年に亡くなった日です。

1878年、兵庫県中東部の今田村(現篠山市)に生まれた下中弥三郎は、幼いころに父を亡くしたため母の手で育てられ、小学3年のとき家業の陶器づくりの見習いとなり、12歳ころには一人前の陶工となりました。しかし、勉学心をおさえることができず、独学で小中学校の教員資格をえると、1898年神戸市の代用教員となり、やがて国語教育のエキスパートとなると1902年に上京、『児童新聞』を創刊したり、『婦女新聞』の編さんに携わるようになりました。

1911年、埼玉県師範学校教師の職をえると、仕事のかたわら『通俗菜根譚(さいこんたん)』などを著したり、1914にはポケット事典『や、此は便利だ』を成蹊社に持ちこみましたが、同社の倒産によりその紙型を譲り受け、妻の名義で「平凡社」を創設して出版、運よくベストセラーとなりました。「や、便」と略称されこの本が、新聞や雑誌にあらわれた新語や流行語などを解説した、いわゆる「日常用語事典」だったことは興味深いものがあります。しかし、下中が本格的に出版活動を開始するのは、1925年ころからでした。

その間、1919年には、日本初の教育団体「啓明会」を結成し、教育委員会制度、教員組合結成の促進などを要求した「教育改造の四綱領」を発表しました。さらに、全国労働組合総連合の提唱、農民自治会の組織化を行うなど先駆的な業績を多く残し、それらの行動の成果を『万人労働の教育』に著わして、教育は義務としてではなく、民衆のものに転換させる「学習権」を主張しました。

1923年に「平凡社」を株式会社として社長となった下中は、『尾崎行雄全集』(1926年)、『大西郷全集』(1927年)を刊行して本格的に出版に乗り出し、円本時代には『現代大衆文学全集』『世界美術全集』『社会思想全集』などを次つぎに刊行して経済的な基盤をつくり、1931〜1935年には『大百科事典』を出版して、いちやく「百科事典の出版社」として著名になりました。

しかし、1930年ころから日本が中国へ侵出していくなかで、大亜細亜協会、新日本国民同盟などの創設にかかわり、1940年には大政翼賛会の発足に協力するなど、国家主義運動のリーダーとなっていきました。そのため、敗戦後には公職を追放され、1951年に追放解除とともに再び平凡社社長に復帰すると、『世界大百科事典』(1955〜59年)など各種事典のほか、教育、文学、芸術、思想などの書籍を多数刊行しました。

いっぽう、下中の活動舞台は世界に広がり、世界連邦アジア会議準備委員長、1955年には世界平和アピール七人委員会を結成するなど、晩年は平和運動や世界連邦運動を推進し、83歳で亡くなるまで、ほとんど休みなく信念を貫き通しました。


「2月21日にあった主なできごと」

1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。

1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた美濃部達吉が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。

1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。

投稿日:2013年02月21日(木) 05:26

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)