今日2月18日は、公卿出身の急進派として明治維新の実現につくし、明治政府の最高首脳の一人となった三条実美(さんじょう さねとみ)が、1891年に亡くなった日です。
1834年、三条実万(さねつむ)の4男として京都に生れた実美は、大老井伊直弼による「安政の大獄」で処分された父の遺志をついで、尊皇攘夷運動を主張する、急進派公卿の中心となっていきました。1862年、姉小路公知(きんとも)とともに江戸へおもむき、14代将軍徳川家茂へ攘夷の決行を促す孝明天皇の命を伝え、この年国事御用掛となりました。長州藩と密接な関係を持ち、翌年には、天皇の大和行幸を企画するなど、朝廷を攘夷論の方向へリードしました。
ところが1863年、公武合体派の公家や薩摩・会津藩らが連動したクーデター「八月十八日の政変」により朝廷を追われ、「七卿落ち」のひとりとして長州藩にかくまわれ、1864年の第一次長州征伐では、福岡藩へ預けられ、太宰府へと移されて、3年間の幽閉生活を送ることになります。しかしこの間に、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の高杉晋作、坂本龍馬らとも時勢を語り合いました。
1867年12月の王政復古で表舞台に復帰した実美は、明治新政府の議定、右大臣といった最高位の官職を務め、1871年には太政大臣となり1885年に太政官制が廃止されて内閣制度が発足したことで、明治天皇を支える内大臣に転じました。温厚な性格だったため、あまり実権をふるえませんでしたが、政府内の対立を調停する役割をはたしたことは、評価されています。1873年の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷らの征韓派と、同じ公卿出身の岩倉具視や、大久保利通らの征韓反対派の板ばさみとなって、悩み苦しみ、病に倒れるほどでした。
1889年、黒田清隆内閣は、条約改正交渉が暗しょうに乗り上げたことで、外務大臣大隈重信が、国家主義者に爆弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生しました。黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出しましたが、明治天皇は、黒田清隆の辞表だけを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させました。のちにこの一時期は、「三条暫定内閣」と呼ばれています。
「2月18日にあった主なできごと」
1207年 法然と親鸞流刑に…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然と弟子の親鸞は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。
1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたルターが亡くなりました。
1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが亡くなりました。
1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。