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印象派の先駆者ターナー

今日12月19日は、『国会議事堂の火災』『吹雪-港の沖合の蒸気船エアリエル号』など、イギリスを代表する国民的画家のターナーが、1851年に亡くなった日です。

1775年、ロンドンの理髪師の子として生まれたジョセフ・マロード・ターナーは、幼いころから母親が精神の異常をきたしたため、学校教育はほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしました。1789年、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)付属の美術学校に入学し、水彩で名所などを忠実に描く技術をみがきました。当時この分野は需要が高く、きわだって有能だったターナーに注文が殺到するようになり、まもなく水彩画家として一本立ちしました。20歳の頃からは油絵も描きはじめ、スコットランドやイングランドを旅行して、気にいった景色を精密なスケッチにおさめました。1799年には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年には正会員となるという異例の出世をしています。

初期のターナー作品は、『トラファルガーの海戦「ビクトリー号」』『もやの中の日の出』など、自然を、流動し変化するものとしてとらえ、大気、光、雲を劇的に表現するのが特色でした。転機となったのは1819年のイタリア旅行で、イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられ、特にベネチアをこよなく愛し、その後も何度も訪れ、油彩画の大作以外に、たくさんのスケッチを残しています。そして、『国会議事堂の火災』(1835年頃)『戦艦テメレール号』など、大気と光の効果を追求することに主眼がおかれるようになりました。

やがて、晩年になるほど鮮やかな色彩が渦巻くような、こん沌としたものが多くなり、1842年に制作された『吹雪-港の沖合の蒸気船エアリエル号』では、船はぼんやりとした塊に過ぎず、猛威をふるう嵐のすさまじさを描きだしています。この作品は、「印象派」を30年も先取りした先駆的な作品でしたが、発表当時は評論家たちに「石鹸の泡」と酷評されました。その斬新な試みを高く評価したのは、新進の評論家ジョン・ラスキンだけでした。なお、ターナーはこの作品を制作するために、水夫にたのんでマストにしばりつけてもらい、4時間も嵐を観察したというエピソードが残されています。

「偉大な画家」として、セント・ポール大聖堂に埋葬されたターナーは、2万枚ものスケッチをはじめ主要作品をすべて国家に遺贈したため、その作品の多くはロンドンのナショナルギャラリーやテート・ギャラリーで見ることができます。

なお、ターナーのたくさんの作品他は、「オンライン画像検索」でも、その片鱗を見ることができます。


「12月19日にあった主なできごと」

1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣氏を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけて受け入れられました。その後、外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼします。

1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。

投稿日:2012年12月19日(水) 05:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)