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『幻想交響曲』 のベルリオーズ

今日12月11日は、フランスのロマン派音楽の代表的作曲家ベルリオーズが、1803年に生れた日です。

パリの南約250kmにあるラ・コート・サンタンドレに開業医の子として生まれたエクトール・ベルリオーズは、学校へ通わずに、18歳まで父からラテン語、文学、歴史、地理、数学などを学びました。14、5歳のころフルートやギターを習う程度で特別な音楽教育を受けることなく、独学で『和声論』を学び、作曲や編曲に挑み、室内楽曲、歌曲を作曲するようになりました。

1821年に大学入学資格試験に合格し、家業を継ぐためにパリ医科大学に入学しました。しかし、解剖学を学ぶうちに気がひけてしまい、次第に医学から音楽へ興味が移ってオペラ座に通うようになりました。それから1年後、1822年に医学の道を捨て、音楽をめざすようになって1823年にパリ音楽院に入学します。父からの送金を断たれたベルリオーズの貧乏ぐらしのはじまりとともに、異色のシンフォニーといわれる『幻想交響曲』が生まれるきっかけとなりました。

1827年、イギリスからやってきたシェイクスピア劇団の公演『ハムレット』を観たベルリオーズは、オフェリア役の女優スミスソンに一目惚れして連日通いつめ、大胆にも結婚しようと決意します。名もない貧乏作曲家が大スターに相手にされるはずもなく、何度も情熱的な手紙を書いても、楽屋通いしても、狂おしい青年を受け付けません。ベルリオーズは、拒絶されればされるほど胸の炎は燃え、気も狂わんばかりの情熱を『幻想交響曲』の作品づくりにぶつけたのでした。

こうして1830年に名作『幻想交響曲』を完成させ、年末に初演されて大成功をおさめました。この曲は、「交響曲」という名がついていますが、心理的な標題音楽で「一芸術家の生涯のエピソード」という副題とともに、次のような説明がついています。──感受性の強い若い芸術家が失恋し、絶望して服毒自殺をはかる。しかしアヘンの量が足りなかったために死に至らず、深いこん睡のなかで一連の夢を見る。その夢の中で官能と感情と幻想はすべて音楽的な想像や思考となり、特に愛する女性の影像はひとつのメロディとなって、さまざまな場面に登場する」としています。

この『幻想交響曲』は、ベルリオーズを貧困のどん底から救い出してくれました。当時一級のバイオリニストだったパガニーニは、「ベルニオーズこそ、ベートーベンの最大の後継者」と絶賛し、2万フランという大金をベルリオーズに贈ったのです。それから3年後、歳をとり、借金に追われ、名声も薄れたスミスソンがベルリオーズのもとに飛び込んできて結婚しましたが、まもなくスミスソンに幻滅の悲哀を感じ、離婚してしまいました。

その後ベルリオーズは、音楽におけるロマン主義の指導者として活躍し、器楽によってドラマを書いたといわれています。序曲『ローマの謝肉祭』『レクイエム』劇的交響曲『ロミオとジュリエット』などの作曲以外に、『近代の楽器法と管弦楽法』『回想録』を著わして、1869年に亡くなりました。


「12月11日にあった主なできごと」

1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶が亡くなりました。
 
1485年 山城国一揆…日本最大の内乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
 
1834年 岩崎弥太郎誕生…三井財閥と並ぶ財閥「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎が生まれました。
 
1843年 コッホ誕生…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが生まれました。
 
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者 長岡半太郎が亡くなりました。

投稿日:2012年12月11日(火) 05:44

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)